2026年5月31日(三位一体主日)
マタイによる福音書28章16節-20節
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」とイエスはおっしゃっています。「世の終わり」とは、この世が「共に完成に至る」という意味の言葉になっています。「終わり」と聞くと、すべてが無くなることのようにわたしたちは思ってしまいます。しかし、「共に完成に至る」ということであれば、それまでのすべてが完成のために用いられるということになります。果たして、どちらでしょうか。
もちろん、「完成する」とき、それまでのすべてのことは、「完成」したものの中に位置づけられます。位置づけられたものは、自分だけで何かを目指していたとしても、「完成された世界」の中の必要な要素として位置づけられるわけですから、自分が目指したものにはならないでしょう。自分が期待していたものとは違うものになっているのです。ですから、わたしが期待していたものは「終わった」と思えます。ところが、わたしが期待していたものは、新しい枠組みの中に位置づけられていますので、それらも用いられているのです。
ヴァルター・ベンヤミンというユダヤ人の哲学者がいました。彼は、ナチスから逃れて、ピレネー山脈まで行くのですが、そこで自死してしまいます。その彼が残した言葉にこのようなものがあります。「さまざまな出来事を、大小の区別なくひとつひとつ物語る年代記作者は、それによって、かつて生起した出来事は歴史にとってなにひとつ失われたものと見なされてはならないという真理を顧慮している。いうまでもなく、救済された人類、解放された人類にしてはじめて、その過去が完全な形で与えられる。ということはつまり、救済された人類にしてはじめて、みずからの過去の、そのどの瞬間も、呼び出すことができるものになっている。人類が生きたすべての瞬間が議事日程に呼び出されるものとなる、その日、その日こそ最後の審判の日にほかならない。」。彼だけではなく、すべての人間の生きた歴史が義しく配置される日が最後の審判の日だと言うのです。
では、わたしたちの悪も用いられるのでしょうか。そうです。わたしが行った悪も、完成した世界においては、完成を邪魔していたことから解放されて、良く用いられるということになります。それでも、悪は悪ですから、悪のままではありません。悪が善に変えられる。それは、イエスさまの十字架が、人間の悪によって引き起こされても、人間の救いの根拠となっていることとつながっています。
自分の悪を取り除くことができないのに、他者の自分に対する悪と思えるものを取り除こうとして悪を行うのが人間です。そのような人間の世界を「善」に変えるとすれば、神さまの力しかありません。神さまの力は、人間の「悪」をも「善」に変えて用いてくださる。それで、わたしたちが行った「悪」も、「共なる完成の日」には「善」に変えられて、完成されたものの中に位置づけられるということです。そうなったとき、わたしは「悪」を行って「良かった」と思うでしょうか。わたしの「悪」が完成のために必要だったと自負するでしょうか。「わたしの悪さえも善に変えて用いてくださった神さまに感謝します。」と祈る人が神さまのご意志を受け入れる信仰を起こされていると言えるでしょう。
わたしたちにそのような信仰を起こすのは、「すべての権威を与えられたお方」イエス・キリストです。このお方は、すべての権威を与えられていますから、「悪」をも「善」として用いてくださいます。ご自身に行われた人間の「悪」である十字架さえも、神とキリストによって「救い」として用いられたのです。このような権威こそ、真実の力です。
わたしたちがこの地上で求めている力は、自分の世界を広げる力でしょう。わたしの悪を悪だと思わない人間が、自分の世界を広げる。その世界の中で、神さまは最終的に、共に完成に至るように働いておられる。それが、すべての日々を共に生成してくださっている神、イエス・キリストです。
イエス・キリストのお働きは、イエスさまの言葉によって行われます。その言葉を人間が受け入れることができるように働くのが、聖なる霊です。神さまがお造りになったこの世界が、神さまのご意志に従うように働いてくださるイエスさまと神さまの言葉を受け入れるように働く聖なる霊。このすべての働きは、一つの神の働きなのです。なぜなら、共に完成に至る世界は、神さまのご意志によって完成に至るからです。わたしたち人間の意志は、神さまの意志を邪魔しているだけです。それでもなお、最後には神さまはわたしたちの意志を沈黙させ、わたしたちが行った「悪」をご自身の意志である「善」の中で用いてくださるのです。
わたしたちにとって、目的を持つことや目標を持つことは、自分の世界を広げていくために必要なことでしょう。目的のない人生など無意味だと思うものです。ところが、わたしたちの目的や目標は、「わたしの世界」のためにあります。わたしの世界が確かになるために「目的」や「目標」を持って、生きようとするのがわたしたち人間です。そうすることで、わたしの世界は確かになるように思えます。
誰であろうと、そのような世界を求めています。これがわたしの悪だとは誰も思いません。神さまから離れてしまっているとも思いません。このような人間が、神さまのご意志に従う世界を作ることはできません。あくまで、自分の意志に従う世界を作ることを目指しているのです。わたしたち人間の間に、争いが絶えないのは当たり前のことです。互いの意志同士が戦い合っているのです。誰もが自分の意志は正当だと主張します。しかし、自分と反対の意志は、立場や文化の違いに基づいているのです。それが分からないわたしが自分の世界から世界を見ている。これがわたしたち人間なのです。
この世界に生きるすべての存在が自分の意志が「悪」であることを認めて、自分を捨て、自分の十字架を取って、イエスに従うようになる、ことはありません。自分からそうなることはあり得ない。それなのに、イエスは「自分を捨てなさい。」、「自分の十字架という苦難を引き受けなさい。」、「わたしと同じように神さまに従いなさい。」とおっしゃる。わたしたちが自分を捨てることができるかのように、苦難を引き受けることができるかのように言うのです。そして、神さまに従うことも自分でできるかのように言うのです。
聖書が語っている「命令の言葉」は「なすべきこと」であって、わたしたち人間ができるから語られているのではないと、ルターは言っています。できないことを知らしめるために語られているのが命令の言葉。できないことを知ったとき、人間は自らの無力さを知り、ただ神に祈る。自分を捨てることなどできない人間。苦しみを引き受けることなどできない人間。神に従うことなどできない人間。このような人間が、神に従うとすれば、自分を捨てるとすれば、苦難を引き受けるとすれば、それは神さまの力によってしか起こり得ないのです。
そのために、イエスさまは今日も語っておられる。「共なる完成に至るまで、あなたがたと共に生成している。」と。イエスさまがすべてを完成へと導くために、あなたがたと共に生成しているとおっしゃっている。イエスさまがわたしに自分を捨てさせる。イエスさまがわたしに苦難を引き受けさせる。イエスさまがわたしが従うようにしてくださる。「すべての権威を与えられた」とおっしゃるイエスさまがおられるからこそ、それが可能となると。
だから、イエスさまは弟子たちに命じています、弟子にすることを。弟子にすることは、イエスさまの弟子にすることですが、端的にはイエスさまの言葉を学ぶことを意味しています。学ばない人は聞く耳がない人。聞こうとしない人。そのような人は、洗礼に至ることはないのです。学ぶことで、洗礼に至る。そのためには、教えることが必要です。これらの働きはイエスさまの権威が行うことです。弟子たちも自分からイエスさまの弟子になったわけではありません。わたしたちが誰かを弟子にしようと努力しても、神さまが与える時とところにおいてなっていくこと。中には、自分の目的のために洗礼を受ける人もいます。自分の意志で洗礼を受けるというのは神さまが主になっていないのですが、それでも、洗礼を受けた後、学んでいけば変わるかと言えば、変わらないのです。始まりが違っているからです。とは言え、最後の審判の時には、すべてが明らかになります。自分の目的は実現せず、神さまのご意志が実現する。
父と子と聖霊の名において、沈められたわたしがキリスト者として生かされるわたし。三位一体の神のお働きに与って、わたしはキリスト者として生かされているのです。わたしからキリスト者になったのではない。三位一体の神が、わたしをキリスト者にしてくださった。神に背いてばかりいたわたしが信じる者として生きているのは、神さまのお働きのゆえです。この幸いは、ただいただいたもの。何の功績もなくいただいたもの。無力なわたしが恵みをいただいたわたしであることを心に刻んで、神に従うようにしてくださいと祈り続けましょう。

