2026年6月28日(聖霊降臨後第5主日)
マタイによる福音書10章40節〜42節
「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。」とイエスさまはおっしゃっています。「受け入れる」ことがつながって、最終的に父なる神さまを受け入れていることになるというわけです。この「受け入れる」という言葉が示しているのは、信仰です。
わたしたちは、イエスさまや神さまを受け入れることは「信仰」だと思っています。しかし、人間を受け入れることを「信仰」とは思っていません。何故なら、「信仰」とは信じる対象がわたしを救ってくださるお方であることを信じるということだと考えるからです。ところが聖書が語っている「信仰」という出来事は、神さまが与えてくださる「信仰」を表していますので、わたしたちが「信じる」というとき、わたしが信じることではない信じることが起こっているということなのです。このような「信仰」の理解に基づいて考えてみれば、「信じる」という出来事は信じる対象に自らを投げ入れることになります。神さまやイエスさまを信じる場合は、神さまやイエスさまの中に自分を投げ入れることになります。これは先週のみことばが語っていたことです。では、人間の場合はどうでしょうか。
人間を信じるという場合は、その人のうちにわたしを投げ入れるのではなく、その人が入っているところにわたしも入るということです。あるいは、入っていると確認することです。だとすれば、その人と同じところに入っていることが、相手を受け入れることになるわけです。ですから、「あなたがたを受け入れる人」は、あなたがたが入っているところに入るということになるわけです。わたしたちが入っているところは、イエスさまのうちですから、その人もイエスさまのうちに入ることになり、イエスさまのうちに入る人は、神さまのうちに入ることになると、イエスさまはおっしゃっているのです。
では、この後の言葉はどうでしょうか。「預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。」とイエスさまはおっしゃっています。これもまた、同じように考えてみれば、預言者が入っているところに入る人は、預言者と同じお方を信じていますので、そのお方からの報いを受けるということでしょう。正しい者を受け入れる人も同じです。
この原文はこうなっています。「預言者の名の中へと、預言者を受け入れる人」、「義人の名の中へと、義人を受け入れる人」。「何々を何々の名の中へと受け入れる」と言われていますが、わざわざ「何々の名の中へ」と言うのはどうしてなのでしょうか。
「名」というものは、その名によって表されている在り方そのもののことです。ですから、「預言者の名」というものは、「預言者」という在り方そのものを表していますので、自分で「わたしは預言者だ」と言っても、「預言者としての在り方」を生きていなければ「預言者」ではないのです。これは、今日の第一日課のエレミヤが語っていることです。エレミヤは、ハナンヤにこう言っています。「わたしに先立つ昔の預言者たちは、・・・戦争や災害や疫病を預言した。」と、預言者としての務めは「人間の罪が招く戦争、災害、疫病などを預言する」ことだと言っているわけです。そこからの悔い改めを語るのが預言者の職務なのです。反対に、そうではない預言、つまり、「平和の預言」は預言者が語るべき言葉ではなかった。なぜなら、「そのままで良いよ」という預言になるからです。エレミヤも裁きの預言を語ったわけですから、王様の求めに応じて「平和の預言」を語るハナンヤの預言は、それが実現するならばそのときあなたは本当の預言者と認められるでしょうと言っているのです。ハナンヤの預言は、王様や民衆が聞きたい言葉を語っているだけだったのです。これを職業預言者と言います。
職業預言者は、王様に雇われて、王様が気に入る預言をする人でした。また、人々にお金をもらって、その人が言って欲しいことを預言する。このような職業預言者がいたのです。この場合、「預言者」とは「名」ではなく「地位」や「職業」になっているのです。「預言者」という「職業」に就いているので、その「地位」、「職業」を失わないために、周りに受け入れられるような言葉を語ることになるということです。一方、エレミヤは「預言者」という「名」が表している神さまに召された「職務」に忠実だった。職業預言者と真実な預言者の違いは「地位」、「職業」と「名」、「職務」の違いです。職業預言者は「地位」を守る。真実な預言者は「名」に忠実に生きる。
人間的な役職でも同じことが起こります。「職業」と「職務」の違いを考えない人が多いのです。それでも人間的職業は、時代や地域によって期待されていることは変わるものです。しかし、神さまに与えられた職務であれば、時代や地域が変わっても変わらないものです。いかなる時代の変化が訪れようと、いかなる社会の変化が訪れようと、変わらないもの、それが神さまが与えた職務の「名」が示すものです。「預言者」も「義人」も神さまに従うという基準を生きていますから、時代にも地域にも左右されることはないのです。神さまのご意志に従っていない人たちに向かって、従うようにと語る。人間的な思惑で生きていけば、災いを招くことになると、悔い改めを語る。この預言を語らせる神さまは、どこにいても、いつの時代でも変わらないお方です。なぜなら、神さまの言葉は人間の本質を問う言葉だからです。
変わり得ない在り方をしていること、それこそが真実の「名」です。そうであれば、イエスさまがおっしゃる「預言者を預言者の名の中へと受け入れる」ということは、自ずと分かります。その人が「預言者」の在り方で、いつでもどこでも変わりなく、神さまの言葉を語っているならば、その人は「預言者の名」を生きていることになります。周りに受け入れられるようなことだけを語る預言者は、「預言者の名」を生きてはいない。また、「預言者の名」を持つ人を「預言者の名の中へ受け入れている」人は、「預言者の名」が指し示している本質を知っている人です。真実の「名」が指し示している在り方を受け入れて、同じところに立っている人です。だから、預言者と同じ報いを受けると言われています。
イエスさまが最後におっしゃっている「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」という言葉も同じなのです。「理由で」と訳されている言葉はやはり「弟子の名の中へ」です。しかし、ここには「受け入れる」という言葉はなく、「冷たい水一杯でも飲ませる」と言われています。イエスの弟子とも言われていません。ただ「弟子の名の中へ、冷たい水一杯だけでも飲ませる人」となっています。イエスの弟子であるという限定はないのですが、「弟子」とは学ぶ人ですから「学んでいる在り方を生きている人」という一般論になってしまいます。そこで、「わたしの弟子だという理由で」と訳したわけです。この訳し方は、イエスさまの弟子に水をあげれば、報いがあって当然だけれども、他の人の弟子であれば報いがあることはおかしいという考え方で訳されているようです。原文通りに読めば、「弟子」という在り方を生きている人は、神さまが与えた本質的な「弟子の在り方」を生きているということでしょう。イエスさまが派遣するのですから「イエスさまの弟子」と訳しても悪くはないのですが、「預言者」と同じように「弟子の在り方」は神さまに与えられなければ生きることができないということなのです。神さまが「弟子」という在り方を生きるようにしてくださった人は、「弟子」として学び続けていますから、「弟子」なのです。そのような在り方を生きている人を、「弟子の名の中へ」受け入れ、水を飲ませてくれる人もまた、「弟子」の在り方を同じように生きて、学び続けているということです。そのような人は、「報い受ける」と言われています。
ここで「受ける」と訳されていますが、「破壊しない」が原文です。ということは、その人はすでに報いを受けて生きているわけです。実は「弟子」として生きていることが「報い」なのです。神さまがそのように生かしてくださることを受け入れていることそのものが「報い」だと言えます。そのような人を「弟子の名の中へ」受け入れて、水を飲ませてくれる人もまた、「弟子の名」の在り方を生きているということです。その人は、神さまが働いてくださる結果、受け入れることになる。そのように生きている人たちのことを、イエスさまを受け入れている人と言うわけです。これがわたしたちの信仰です。この信仰の中に入れられているのは、選ばれている者。選ばれている者たちは、同じ神さまのお働きに与っている者であることが自ずと分かる。もちろん、そうではない者も自ずと分かる、ハナンヤのように。同じところに生きているお互いを受け入れ、互いを愛することも、神さまのお働きです。神さまの裁きの言葉を聞き、方向転換したわたしたちは神さまの選びに与っている者たちです。一人ひとりが「弟子の名の中」へと生かされていることを感謝して、共に生きていきましょう。

