2025年6月15日(三位一体主日)
ヨハネによる福音書16章12節-15節
みなさんは、「担いきれない」と思うことがあるでしょうか。担うということは、引き受けて、背負っていくことですから、物理的に重い荷物を担うこともあります。また、精神的に担いきれないと思うこともあります。物理的にも精神的にも担うことができるとすれば、その人は体も心も強い人でしょう。
わたしたちは弱いと感じると、強くならなければと思います。そのためには鍛えれば良い。強くなるために自分を鍛えようと頑張る人がいます。体を強くするために、ジムに通う人もいますね。ジムに行かなくても、毎日、5000歩歩くとか10,000歩歩くとか、腹筋を100回するとか言う人もいます。確かに、身体はそのようにして鍛えることができるでしょう。しかし、心を鍛えるのはどうすれば良いのでしょうか。あえて、精神的に苦しい状況を作って、それに耐えるというような人はいませんね。
精神のジムなんてありません。それで、考える方向を変えるという人もいます。苦しい状況を誰かの所為にすれば、自分は担わなくても良いので楽になると思います。他人を責めることで、自分が正しいのだと思い込むことができる。そして、楽になると思う。また違う人たちは、神さまがわたしを鍛えるために、このような苦しい状況を与えたのだと考える。この考え方は、ペトロの手紙に記されているように「主の鍛錬」として受け取ることです。しかし、そのように考えてみても、わたしたちは苦しいところから逃げたいという気持ちを変えることは簡単にはできません。誰かの所為にした方が楽です。自分は担わなくても良いからです。
わたしたちが苦しい状況を担うことから逃げ出したいと思うのは、ごく普通のことです。イエスも弟子たちがこのように考えることをご存知で、おっしゃっているのです、「今、あなたがたには理解できない。」と。この訳では「担う」という言葉にはなっていません。しかし、原文はこうなっています、「今、担うことは、あなたがたは可能ではない」と。
いったい、何を担うことが可能ではないとおっしゃっているのでしょうか。イエスが十字架刑になり、自分たちも同じように十字架に架けられるかもしれないと不安になることです。誰であろうとも、死刑に処される先生の弟子であれば、同じ運命が降りかかってくると思います。それだけではなく、慕っている先生が殺されることを、仕方ないねと受け入れることなどできないでしょう。そのように受け入れるとすれば、弟子たちはイエスを愛してはいなかったわけです。愛する先生が殺されることを受け入れ、担うことなどできない。そのようになるであろう弟子たちのことをイエスは分かっている。だから、担うことができない弟子たちにはこれ以上言わないとおっしゃったのです。しかし、いずれイエスは十字架刑に処される。そのときには弟子たちは担うことができるのでしょうか。できないでしょう。それで、イエスは真理の霊のことを伝えるのです。
そうは言っても、真理の霊である聖霊が弟子たちに与えられるのは、イエスの十字架刑の後の後、聖霊降臨まで待たなければなりません。一番苦しいときには真理の霊は弟子たちのそばにはいないのです。ただ、それまではイエスと父が弟子たちの許にいる。もちろん、父は目には見えない。それでも、イエスを見た者は、父を見ていると、イエスはおっしゃっていました。14章9節です。「わたしを見た者は、父を見たのだ。」と。だから、イエスが目の前にいることは、父なる神が目の前にいることだと言われたのです。ということは、イエスを見ている者は父を見ているから、これからイエスに起こってくることは、父に起こってくることであり、これから起こってくることはすべて父が見ていることだとイエスはおっしゃっているのです。
父なる神が、イエスの十字架の苦しみを受け取る。弟子たちの人間への恐れを受け取る。神に従う人の苦しみを神は受け取ってくださる。そう言われても、苦しんでいるのはわたしだということに変わりはありません。苦しい状況が楽な状況に変わるわけではありません。それでは、何も変わらないと普通は思います。ところが、信じる者にとっては、神に祈ることができる。神に苦しみを聞いていただける。イエスの十字架の苦しみを思い、自分もイエスに従おうと思う。信じるということからわたしたちが受け取るのは、父とイエスと一体だという平和です。この平和を与えるのが、聖なる霊です。
さて、聖霊は「真理をことごとく悟らせる。」と言われています。真理がたくさんあるのでしょうか。真理とは隠れなくあることですから、隠れなくあることそのものは真理の現れです。現れていることがたくさんあるとしても、その大元にある真理そのものに従って現れていること一つひとつが真理です。わたしたちに起こってくる出来事、災厄にしても、幸にしても、ただ隠れなくあることそのものとして、神の出来事であると信じ、受け取ること。それが真理の霊がわたしたちに教えてくれることです。すべてのことは、神の意志に従って、今あるようにあると受け取ることができるようにしてくださるのが、真理の霊なのです。
神の意志に従っていることも、神の意志に従っていないことも、神の意志の中で起こっているのです。真理の霊を受け入れるとき、わたしたちは慌てふためくことがない。慌てなくても良いと、神に信頼していることができる。そのときには、わたしたちは父と子と聖霊の一なる世界に生かされています。神の意志がなっていると信じる人は、自分にとって都合が悪いと思えることも神の出来事として、その出来事から神の言葉を聞こうとするでしょう。だから逃げようとはしない。誰かの所為にもしない。そのように受け入れるとき、担うことが可能とされるのです。
三位一体主日の今日は、わたしたちに聖霊が何をしてくれるのかを覚える日です。父とイエスとから送られる聖霊は、わたしたちをイエスと父に信頼して生きることができるようにしてくださる。真理の霊が明らかにしてくださるのは、わたしたちの「罪」、神の「義しさ」、神の「裁き」です。神に隠れて生きるようになった人間に自分の隠れる罪を教えることです。義しい神の前では、その罪を誰も言い逃れることができないことを教える。素直に、神の裁きを受け入れるようにと教える。そのとき、わたしたちは神の御前に生きている。真理の霊によって、わたしたちは隠れることなく、自らの罪を認めて、神の義しさの中で生きることができるようになる。そうなるとき、わたしたちは自由を生きる者とされる。そのとき、イエスが8章32節でおっしゃっている言葉が実現するのです。
「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」という言葉が実現するのです。隠れなくあることを知り、隠れなくあることがわたしたちに自由を与えるのです。隠れることなく生きるとき、わたしたちは自由です。もちろん、みんなの前ですべてをさらけ出して生きるということではなく、神の前に常に自らの罪を認めつつ生きるということです。そのとき、わたしは自由です。罪から解放されて自由を生きることができるのです。
父なる神と子なるイエス・キリスト、そして聖霊の働きの中に生きるとき、わたしたちは自由です。何も隠す必要がない。この自由をわたしたちに与えてくださるのは、十字架のイエス。このお方が、わたしたちに与えてくださるのは、死を恐れることなく、真実に生きる道です。死を恐れることなく、十字架を負い、死んで、復活したキリストが、あなたの主、あなたの神。父なる神があなたのために、与えてくださったキリストが、あなたのために十字架を負ってくださったのです。このお方によって、あなたは自由を与えられた。
今日、共にいただくキリストの体と血があなたのうちに受け入れられるとき、あなたはキリストとひとつとされ、父なる神とひとつとされ、聖霊の働きによって、三位一体の神のうちに生きる者とされる。罪の虜となっていたあなたは解放され、神に造られたままのあなたを喜んで生きることができる。三位一体の神は、あなたをご自身うちに受け入れてくださり、あなたのうちに生きて、働いてくださいます。感謝して、主の体と血に与りましょう。