2025年6月29日(聖霊降臨後第3主日)
ルカによる福音書9章51節-62節
わたしたちの顔は、注意している方向に向きます。何かをしているときに、別のことが気になると、そちらに顔が向きます。周りが気になる。誰かの動きが気になる。そのようなとき、わたしたちの顔がその気になる方向に向くのです。もちろん、顔を動かさないとしても、耳だけ動かすこともありますね。そのときの顔は、前を向いていても、前にいる人に焦点が合っていません。それでその人が何に気を取られているのかが分かります。今日の福音書に出てくるのは、神の言葉よりも周りが気になっている人たちです。
今日の福音のはじめにはこう述べられています。「イエスは、エルサレムに向かう決意を固められた。」と。この「決意を固められた」という言葉の原文は、「エルサレムへ旅することへと顔を固くした。」です。エルサレムへと向かって旅をするということに、イエスは顔を固くして、そのことから顔を背けないようにしているという意味です。だから、「決意を固める」と訳されています。しかし、それは目的の場所がエルサレムだという話ではなく、イエスが歩いて行く方向を定めたことです。それは、神の意志に従うという方向です。エルサレムという場所が目的地だという意味ではありません。エルサレムへと向かうことそのものを神の意志として顔を固めたという意味です。これをわたしたちは勘違いします。
イエス一行を歓迎しなかったサマリア人の村の人々は、自分たちを汚れた者だと考えるユダヤ人たちの中心的な町エルサレムを目的地としているイエス一行を拒否するわけです。エルサレムへと向かっているというだけの理由で拒否した。イエスが何のためにエルサレムに向かうのかを考えることはなかった。エルサレムに行く人たちは、自分たちを迫害する輩だと単純に考えていたということです。これは、エルサレムという場所にこだわっている考え方です。わたしたちが礼拝の最後の方で歌う「ヌンク・ディミティス」では「み民イスラエルの栄光です」と歌われますので、現代の「イスラエル国」を思い浮かべて、「どうして、イスラエルを称えるのだ」と批判します。もちろん、現代のイスラエル国はガザの住民に対して最悪のことを行っていますから、そう考えても仕方ないと思います。サマリア人たちもまた、エルサレムと聞けば、自分たちを迫害する本拠地だと思ったことでしょう。
しかし、場所ではなく、目的地でもなく、ただエルサレムへと旅をするということそのものに顔を向けて、顔の向きを固めたのがイエスなのです。ですから、エルサレムという町を誉めるわけでもなく、けなすわけでもなく、そこへと向かうという状態そのものに神の意志があることを受け入れ、従っているイエスなのです。そのようなイエスに向かって、「彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言う弟子たちも勘違いしています。イエスは彼らを戒め、別の村へと向かった。イエスは拒否されることも、神の意志として受け入れたのです。
続いて、このイエスに従うということについて、三種類の反応が記されています。どれも、本質を見ていない反応です。格好だけ、イエスに従うという人たち。もちろん、弟子たちも同じところに陥っていると考えて、弟子たちに聞かせるためにも、イエスは語っているのです。
最初の人は、「どこへでも従って参ります」と言っていますが、イエスは場所を目的とはしていません。だから「人の子には枕する所もない」とおっしゃっています。つまり、人の子に場所はないということ、場所に留まることはないということです。イエスの場所は父の懐だからです。
二番目の人は、「まず、父を葬りに行かせてください」と言います。イエスに従うことが一番ではなく、一番は父の葬りだとその人は言うのです。それに対して、イエスは「あなたは行って、神の国を言い広めなさい」と言います。「あなたは行って」という言葉は、厳密に訳せば「あなたは出て行って」です。つまり、家を守ろうとするところから出て行って、神の国を告げ知らせなさいとおっしゃっています。ここにも場所や人間関係が人を縛り付けるということが示されています。
三番目は、「まず家族にいとまごいに行かせてください」と言いますが、イエスは「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と答えています。鋤に手をかけているとき、顔は前に向けられています。後ろを見ながら鋤を振るうことはないとイエスはおっしゃっています。ここでも顔の向きが語られているわけです。それは、外面的な顔の向きではなく、内的な顔の向きのことを述べているのです。
これら三種類の人たちは、どの人も「まず」すべきことがあって、その次にイエスに従いますと言っています。まず、イエスに従いますとは言わないのです。そこに、顔を固めたイエスとの違いがあります。今日の第一日課の列王記上に記されているエリシャも同じようにまずいとまごいに行くことをエリヤに願いました。しかし、エリシャは「牛を捨てて」と記されていますから、戻る道を断ってから父と母への別れの接吻を願ったのです。それで、エリヤは彼エリシャを信頼して待ちました。一方、三人の人たちは、第一に気になっていることに顔を向けていますが、それは外面的な出来事です。それが終わった後ですぐにイエスに従うかと言えば、おそらくまた違うことに注意を奪われて、「ああ、これが終わってから、イエスに従おう」となるでしょう。戻る道を断っていないからです。顔を固めるということは、戻る道を断つことでもあるのです。後ろには戻らないと顔を前に向けて固めるのです。これは、イエスに召された際のペトロたちも同じでした。彼らは「網を捨てて」イエスに従ったのです。
わたしたちが顔を向けていること、それがまず気になることです。視野に入ってきたものが気になり、視線を奪われてしまい、気になってしまう。いろいろなことが起こると、起こるたびに、視線は移っていきます。そして、最初に見たことを忘れます。最後に見たものが一番気になって最優先される。これが、わたしたち人間の見るという視覚に縛られた姿です。イエスは、その視覚に揺さぶられることなく、神の意志という一つの方向に向けて、そこから逸れないように顔を固めた。それは場所ではないし、目的でもありません。ただ、そこへと向かうという道行きそのものに、イエスは顔を固めたのです。
このような生き方、このように顔を固めることは、わたしたち一般的な人間にできるのかと思う人もいるでしょう。わたしが目に入るものに動かされないように気をつけて、自分の顔を固くしていることができるのでしょうか。確かに、気をゆるめると、他のことが気になってきます。今、自分が顔を向けるべきは何であるか、外面的な出来事の対処ではなく、内面に働く神の意志であることをしっかり持っているならば、顔を逸らすことはないでしょう。
このように言うと、「それは無理」という返事が返ってきそうですね。確かに「無理」かも知れません。わたしたち人間は、どうしても気になってしまう。目に入ること、見えていることに揺さぶられる。惑わされる。ですから、どうにも仕様がないでしょう。わたしたちのうちに宿っている原罪がそのように働くからです。三人の人たちのように言い訳はいくらでもできます。そのようなわたしは罪人であることを認めなければなりませんが、これも認めたくない。それで、お互いに「無理だよねえ」と言い合って、仲間を増やせば、神さまは赦してくださるのではないかと考えてしまいます。
神さまはわたしたち人間が「無理」と言って「頑張りたくない」ことをご存知です。そのわたしたちのために、キリストをお遣わしになった。キリストが十字架で引き受けてくださったのは、わたしたちの「無理」、「頑張りたくない」という罪です。「神さまはこんなわたしでも赦してくださる」で終わってしまう信仰です。確かに、そのようなわたしを救うために、キリストは十字架を負ってくださった。「そのまま生きていれば良いのだよ。わたしがあなたのすべての罪を負って、死んだのだから、あなたは何も負わなくても良い。神さまもあなたを責めない。それで良いのだよ。」と言って欲しい。それが愛の神さまだと思いたい。今日の福音書に出てくる人たちもそれで良いと思っている。マタイによる福音書11章28節にはこのようなイエスの言葉が記されています。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」と。この最初の言葉だけをわたしたちは聞いています。後半の言葉では、やはりそれぞれがイエスの軛を負うと述べられているのに、イエスの許に行けば、休むことができて、何もしなくてもイエスさまがやってくださると思ってしまう方もいます。しかし、それが「わたしに従うこと」ではないのだとイエスはおっしゃるのです。イエスの背中を見ながら、歩み続けることをイエスは求めておられる。わたしたちが顔を固めるのは、イエスの背中です。イエスに従うということは、イエスの歩む道に向かって、わたしの顔を固めるということなのです。
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」とおっしゃったイエスに従うのは、第一に神の国を求めること。第一に大切なのは、わたしを救ってくださったお方の義しさ。救ってくださったお方に従うことが、救いを生きること。イエス・キリストは、まずわたしたち人間の救いを優先してくださった。まず、わたしたちのために十字架を負ってくださった。あなたの救い、わたしの救いをまず考えてくださったお方がイエスなのです。このお方の体と血があなたに与えられる。良く見て、良く噛んで、良く飲みましょう。イエスの体と血に与るあなたがイエスの生き方に顔を固めて、歩み続けることができますように。