「平和を送る者」

2025年7月6日(聖霊降臨後第4主日)
ルカによる福音書10章1節-11節、16節-20節

神さまに信頼していること、神さまとの和解が平和だと以前お話ししました。今日の福音書で弟子たちを派遣するに際して、イエスは「平和」をあいさつとして送るように伝えています。この挨拶である「平和」とは、ヘブライ語ではシャロームです。ヘブライ人はいつでも「シャローム」と挨拶を送ります。この「シャローム」は「神の完全性」を意味する言葉ですので、「神の平和」と言われることもあります。「神さまが持っておられるシャロームがこの家にありますように」という挨拶が「シャローム」なのです。この「平和」は受け取る人の許に留まるか、その人が受け取らなければ、あなたがたの許に戻ってくると、イエスはおっしゃっています。

わたしたちが普通に「平和」と考えているのは、戦争のない状態であったり、何事もなく安心して生きることができる状態であったりします。この状態は、争いがないことであろうと安心していることであろうと、誰かとの関係だと思っています。そして、その関係が続かないならば、平和はないと思っています。ところが、イエスは平和はなくならないと言うのです。これはどういうことでしょうか。誰かとわたしの関係が平和だとすれば、その平和はなくなります。ところがなくならないとすれば、その平和はわたしと誰かの間の関係ではないことになります。ここでイエスがおっしゃっている平和は、神との間にある平和で、神さまへの信頼、信仰のことです。ですから、この神さまとの間の信頼関係は、人間同士の関係とは違う事柄なのです。一人ひとりが、神さまとの間に平和を生きるということです。その平和を受け取らないで、神さまとの間の平和を生きることがない人がいても、その平和はなくなりません。受け取らない人にとっては平和はないでしょう。しかし、平和そのものはなくなりません。だから、あなたがたに戻ってくるとイエスはおっしゃるのです。

この平和は、神さまとの間の平和ですから、神さまが持っておられる平和なのです。ですから、無くなりません。そして、わたしが誰かに送ったとしても、わたしが持っているものではないので、無くなりません。神さまが持っていてくださる。それが最後にイエスがおっしゃる言葉です。「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」と20節でイエスはおっしゃっています。この言葉は「天」が複数形になっています。天はひとつではないということですが、それは当時の世界観に従っているからです。神さまの世界は、地上を取り巻く天がいくつもの層をなしていると考えられていました。現代科学では地上に近いところから順に4つの天があるというのと同じようなことです。「対流圏」、「成層圏」、「中間圏」、「熱圏」と4つの天と言えるような圏域あるのですが、古代においては7つの天があると考えられていました。そのいくつもの天のうちに、あなたがたの名前が書かれてしまっているのだとイエスはおっしゃるのです。ということは、神の世界の中にあなたがたの名前が書かれてしまっているということです。これが神さまとの間の「平和」のしるしなのです。ですから、この平和はなくならないということです。だとすれば、弟子たちが送る「平和」を受け取らない人たちがいたとしても、あなたがたの所為ではないのだから心配いらないとイエスはおっしゃっているのです。神さまとの和解を生きるようにされてしまっている人たちは、天に名前が書かれてしまっている人たちなのだという意味です。名前がない人たちは、神との平和を受け入れないでしょう。それは、あなたがたの所為ではない。だから、何とか受け入れさせようと躍起になる必要はないという意味でもあります。

そうなのです。わたしたちは、良く言います。分かるように話してくれれば分かるのに、と。また、ちゃんと説明してくれれば分かると。いえ、分からない人は分からないのです。聞く耳のない人は聞かないのです。それだけのことですから、弟子たちの説得力がその人たちの聞く耳を開くわけではありません。神さまが、名前を天に書いてしまっている人でなければ、聞かないのです。ですから、弟子たちが自分たちの力によって、人々を癒したり、説得できたなどと思い上がることがないようにと戒めたのです。「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。」と。

わたしたちが行っていると思っている宣教は、神さまが行う事柄です。わたしたちの力ではないのです。わたしには力はありません。神にこそ力がある。わたしは人の耳を開くことはできません。神がその人の耳を開く。だとすれば、わたしが分かりやすく伝えるということでもないのです。弟子たちの聞く耳を開くのは、聖霊です。弟子たちを通して語り掛けるのは聖霊です。彼らの平和のあいさつを通して、聖霊が働くのです。受け取るべき人が受け取る。平和を生きるべき人が生きる。これを自らの成果と自慢してはならない。あるいは、伝わらないときにも自らの所為だと落胆する必要もない。すべては、神が天に名前を書いてしまっている通りに成っていくのです。

今日の日課の16節でイエスはこうおっしゃっています。「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。」と。つまり、あなたがたを拒む者は、神を拒んでいるのだとおっしゃっています。わたしたちは、人間を拒んでいると思っています。しかし、その奥に働いているイエスと神とがおられる。弟子たちを拒むということは、弟子たちを派遣したお方を拒んでいるということになると、イエスはおっしゃっています。何かが現れてきたときに、受け入れないということは、現れてきたものの奥にあって何かを現しておられるお方を拒んでいるということです。わたしたちはそこまでは考えません。なぜなら、目に見えるところだけが現実だと思っているからです。見えていないならば、何の影響もないと考えるからです。しかし、イエスは隠れているもので現れないものはないと、別の箇所でおっしゃっています。神さまがうちに働いて、現しているとしたら、その現れを拒否することは現している神さまの働きを拒否しているということなのです。これがわたしたちがいつも行っている対症療法です。

イエスは、対症療法のように現れているところを上手くやっていくことを求めてはおられない。むしろ、見えないところを問題にしておられる。罪は、見えないところに働いていると見ておられる。それゆえに、弟子たちを受け入れないということは、弟子たちを派遣したイエスと神とを受け入れないことなのだとおっしゃるのです。

さらに、平和については、わたしたちが考えることは争いが見えない状態になっていることを平和と言うものです。しかし、わたしたちの心の奥底には、憎しみと妬みとが渦巻いています。表面的には平和を装いながら、内面的には争いと憎しみが働いている。表面的には、良い人を装いながら、見えないところで人を排除している。これがわたしたち普通の人間の平和です。この見せかけの平和を批判して、神のご意志に立ち返るように語ったのが、旧約の預言者たちでした。イエスもまた、預言者たちと同じように、人間の内面の悪が外に現れていることを語っています。ですから、わたしたちから平和は生まれないのです。争いしか生まれない。それゆえに、イエスはおっしゃるのです。「どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。」と。

神の国がそばにあると伝えるように、イエスは弟子たちに命じています。神の国が近くにあること、神の国の方から近づいてくださっているということを伝えるようにとの命令です。人間が近づくことができないのが平和です。人間が作り出すこともできないのが平和です。神が持っておられるのが平和です。この平和を人々に送ることだけが、弟子たちがなすべきことです。そして、わたしたちもまた神との平和を送られた者として、神との平和を伝える者として送り出されているのです。

わたしたちが聖餐の前に交わす「平和のあいさつ」は、このイエスの言葉に従って、互いに神との平和を送り合うことです。「神さまとの間の平和が、あなたに送られています」とあいさつを送り合うわたしたちの上に、神の平和が降っているのです。イエスの体と血を受け取るみなさんの上に、神の平和が注がれますように。あなたの名前は、天に書かれてしまっています。決して、消えることのない神の心に書かれてしまっているのです。喜びをもって、神の意志に従って生きて行きましょう。神に派遣されたところで出会う、聞く耳を与えられた一人ひとりの人たちと共に。

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