2025年7月20日(聖霊降臨後第6主日)
ルカによる福音書10章38節-42節
わたしたち人間は、一度にひとつのことしかできません。二つを同時に行うことはできません。あることに心を向けているとき、別のことに心を向けろと言われても、向けることができないものです。また、心の想いは、わたしが起こすわけではなく、神さまによって起こされているものですが、すべての想いが神さまによって起こされているとも言えません。神さまが起こした心の想いに逆らって、自分が関心のあることに向かうこともあります。そのとき、わたしは自分の意志を捨てていませんから、神の意志に逆らっているわけです。今日のマリアは、なすべきことよりも、自分がやりたいことに心を向けているのでしょうか。姉のマルタは、妹のマリアのことをそう考えているようです。
マルタはイエス一行をもてなしていた。神さまによって起こされた想いに従っていたことでしょう。それなのに、マリアのうちに起こされた想いが神さまによって起こされたものだ、とは考えてもみなかった。自分の行っていることが大変になると、他人を批判したくなる。マルタはそうなっているのでしょうか。それで、マルタはイエスさまから叱られているのでしょうか。
誰でも、他者の心のうちに起こされたものを知ることはできません。大抵は、表面に現れたその人の行動を見て、この人は怠けていると思ったり、この人はわたしの気持ちを分かってくれないと思ったりするものです。他者の心のうちは誰にも分からない。それなのに、決めつけてしまう。これが、わたしたちの罪の姿です。
しかし、本当に怠けている人もいるかも知れません。また、どうすれば良いのか分からないという人もいるでしょう。考えることができない人もいるでしょう。それを指摘すれば、怒る人もいます。そういう現実の中では、誰も何も言わないということになってしまいます。そして、学ぶことなく、考えることなく、漫然と世間に迎合して生きる人が増えていく。これで良いのかと思っても、言うとまた怒る。これがわたしたちの現実です。
誰にでも、自分の立場がある。だから、その立場からものを考える。それで、協力してくれない人を非難することにもなる。自分たちにいろいろ指摘する人は悪い人で、自分たちに何も言わない人が良い人です。考えないということによって、悪が蔓延していくということを考えたこともない。悪は考えることを嫌う。論理的に考えている人は、相手の悪いところしか見ていないと、批判される。どちらが正しいかということではなく、どちらも自分の立場から見ているのです。違う立場からは、自分のことはそのように見えるのかと、改めて自分の言動を思い返してみる。ということも結局できない。
このように、わたしたちは自分の判断を変えることができないものです。「あの人は変わった。」とか「変わっていない。」とか、他者を評価する人がいますが、自分が変わっていないということは見えていません。それで、イエスもマルタに言います。「マルタ、マルタ」とマルタの名を二度呼びます。これは、イエスがマルタのことを心配している呼びかけでしょう。そして、こう言うのです。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」と。多くのことが彼女の肩にかかっている。それに振り回されて、心があちらのことへ、こちらのことへと揺れ動いている。そのようなマルタが心を定めるように、とイエスは言葉を語っています。「しかし、必要なことはただ一つだけである。」と。
イエスは別の箇所で「二人の主人に仕えることはできない」とおっしゃったことがあります。わたしたちの心は、一度に一つのことに向けられるものです。ですから、一度に二つのことを担うことはできません。たとえ、二つの働きを担わなければならないとしても、まずは一つを、そのあとでもう一つを、というように担うものです。そのたびに、心の向きを変えていなければ、担うことはできません。いつも、一つのことに心を向けるのですから、二つの場合は同時には向けることができない。だから、時間を分けて、心を向けることになります。その場合、誰かが手伝ってくれれば、一度に別々のことができて、効率も良いと考えます。それで、マルタはマリアに手伝って欲しかったのでしょう。ところが、いつまで経っても、マリアはイエスの足許から離れる気配がない。それで、マルタはイエスに頼むのです。
一つのことにしか心を向けることができないとすれば、一つずつ行うしかない。それはマリアにとっても、マルタにとっても同じです。「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」とイエスは言うのですが、マリアが選んだ方であるイエスの言葉を聞くということが「良い方」であって、マルタが心を乱している食卓のことは「悪い方」だと言われているように思えます。果たして、そうなのでしょうか。
わたしたちは、悪い方を選ぶでしょうか。誰でも、良い方を選ぶものです。その場合、「良い方」という判断基準は「わたしにとって」です。ただし、ここで使われている「良い」という言葉は「善」という良さです。「善である部分」という意味の言葉です。これは善であるものと悪であるものがあって、善である方を選ぶということのように思えます。もちろん、この「善」は神さまの「善」ですから、神さまの「善」の中の「部分」をマリアが選んだと、イエスはおっしゃっているのです。マリアもマルタもそれぞれに神さまのお心に従った「善」の中の「部分」を選んだのです。この選びは、起こされた想いに従って選んだということでしょう。そうであれば、他者の内に起こされた想いを、わたしが「悪い」と判断することは、神の御心を判断することになります。それぞれに神さまから起こされた想いを尊重すべきであるということが、イエスがマルタに伝えたいことでしょう。
だからこそ、イエスは続けてこうおっしゃっています。「それを取り上げてはならない。」と。この原文はこうなっています。「何であろうと、彼女から取り去られないであろう」と。マルタが取り上げてはならないとは、イエスはおっしゃっていないのです。「取り去られないであろう」という受動態ですから、神さまが彼女から取り去ることはないであろうという意味なのです。そうすると、神さまが彼女に与えた「善なる部分」は彼女から神さまが取り去られることはないので、彼女が担うべきこととして与えられているということです。このことはまた、マルタ自身に与えられた「善なる部分」も神さまが取り去ることはないであろうということになります。マルタもマリアも、それぞれに神さまから想いを起こされて、働いているということです。
イエス一行を迎えるという全体の中で、善なる神さまが与えた部分を担うのは、マルタもマリアも同じです。マルタは食事の世話をしてイエス一行を歓迎している。一方、マリアはイエスの話を聞くことによって、イエスを歓迎している。どちらも、イエス一行に対するお世話の一部です。これらいくつかの働きの全体をまとめておられる神がおられて、それぞれに担うべき部分を与えられている。それを選ぶように与えられている。こう考えてみれば、わたしたちが行うことも同じです。
ある人が何も協力してくれないということで批判的になる場合、その人が他のことをしているということに目が向かないものです。そのある人もまた、わたしが行っていることに目が向かない。そして、自分が行っていることには目が向きますので、その立場から「あの人は何も協力してくれない」と言うことにもなる。こうして、互いに与えられた善なる部分を否定することになる。そして、争いが起こる。こう考えてみると、わたしたちの世界を全体として動かしておられるお方を信じる信仰によってこそ、見えてくる世界があるということです。
マルタが、イエスに「何ともお思いになりませんか」と問うことによって、イエスの言葉が残されることになったとすれば、このマルタの問いも、神が彼女を用いて、イエスの言葉を語らせたということになります。ただし、だから自分の思いに従って文句を言っても良いのだということにはなりません。神さまのなさる業は計り知ることができないと、自らの浅はかさを思うべきでしょう。奥深い神さまのご計画があって、すべてはなっていく。そう信じる者は、自分と神さまという関係の中で神さまを信頼しているのです。一般化しているわけではないのです。
今日与えられるキリストの体と血も、あなたに与えられるのは、キリストの部分ではありません。小さな欠片であろうとも、善なるキリストのすべてである体と血です。「これはあなたがたに与えられるわたしの体である」とイエスはおっしゃるからです。イエスの言葉を聞いて、キリストの言葉を信じたあなた自身のうちにキリストが入ってくださる。それぞれに神さまの善いひとつのものを与えられているのです。このような神の世界、神の国、神の義をまず求めて行きましょう。