「解放の安息日」

2025年8月24日(聖霊降臨後第11主日)
ルカによる福音書13章10節-17節

先週の福音書と同じように「偽善者」という言葉がイエスの口から語られています。今日、イエスが言う「偽善者」とは、何も考えていないということです。神の意志が何であるか、いつも行っていることが本当にそれで良いのか、考えてはいない。それが偽善になってしまうとおっしゃっているのです。

会堂長は、癒しは仕事だから安息日には「行うな」と言うのです。しかし、イエスは安息日は解放の日だとおっしゃって、反論しています。婦人の癒しと、牛やろばに水を飲ませることは同じだと、イエスはおっしゃっています。その一致点は、いのちのために必要なことは、安息日の精神に基づいて行うものだという点です。会堂長は、いのちを蔑ろにしているとイエスはおっしゃっているのでしょうか。

律法を守るということを「行わないこと」と理解するか、「行うこと」と理解するかによって、守り方が違ってきます。「律法を守る」という言い方には「律法に反したことは行わない」という意味が込められています。しかし、神は「行わない」ために律法を与えたのではありません。むしろ、「神の意志に従って生きる」ようにと律法を与えたのです。十戒は「してはならない」という否定形の命令文になっています。だから、「行わない」ことが律法を守ることだと思ってしまいます。しかし、本質的に考えてみれば、行わないことではなく、神の意志に従って生きることが、安息日の意味です。そう、イエスはおっしゃっているのです。

イエスは、ある婦人を見て、「婦人よ、病気は治った」と言っています。原文では「あなたは解放されてしまっている、あなたの弱さから」という言葉です。病気が治るということは、弱さから解放されることなのです。弱さに縛られていて、身動きできなくなっているところから解放されて、動くことができるようになる。当時は、病気というものは、悪霊が人間を弱さに縛り付けて、弱らせてしまうことだと考えられていました。この弱さから解放されて、生きていくことができるようになる。これが、イエスが行っておられた癒しです。

同じように、使徒パウロは「弱さ」について、恵み深い言葉を主イエスから聞いたと手紙に書いています。コリントの信徒への手紙二12章9節の言葉です。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と。病気になって、弱ってくると、もっと自分に力を付けなければと思い始めることになる。それとは反対に、弱い状態は、恵みである神の力が充分に働く状態だとイエスはおっしゃった。パウロはイエス・キリストの十字架についてもまたこう言っています。「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。」と。

使徒パウロが受け取った主の言葉が語っているのは「弱さの力」とでも言うべきものです。「弱さ」があることで、恵みである神の力が働く場になる。だから、パウロは「弱さを誇る」と言うのです。このように見てみると、聖書が語る「弱さ」、「病気」とは、神が与えて、ご自分の力が働く場を作ってくださったということになります。そういう意味で、イエスは弱さの中で恵みは十分だとおっしゃり、パウロは弱さを誇るのです。

このパウロへの言葉によって、イエスが弱さをどう見ておられたかは明らかです。病気という状態に陥って、弱っている人には神の力が働いている。だから「あなたは解放されてしまっている、あなたの弱さから」と、今日婦人におっしゃった。それは、弱さに目を向けるのではなく、あなたを解放する神の力に目を向けなさいということです。

パウロと同じように、わたしたちは自分の力が増すことを求めます。しかし、自分の力が増すことによって、神の力が働くことを妨げてしまうのです。弱さに目を向けるということは、結局自分の力に目を向けていることです。力が弱いから自分は病気になったのだと考えることが、神から引き離すことになる。もちろん、病気は罪の罰だと考える人たちから見れば、弱って病気になった人は罪人だということになります。そして、神から引き離されていくことになる。このように「弱さ」を考えることへと導くのが原罪です。そこから解放するために、イエスはわたしたち一人ひとりのところに来てくださった。わたしたちが、神を信頼して、神のみを見て、神の力に依り頼むようにと、来てくださった。

「偽善者たちよ」、とおっしゃるイエスは神の働きを妨げる人たちが陥っている偽善を語っています。その偽善によって、人々を縛り付けていることを糾弾しています。しかし、この偽善による縛り付けがどうして起こるのでしょうか。どのような人が、この偽善に加担するのでしょうか。

この会堂長は十戒を守ることを最優先にしています。これは義しいことだと思えます。神の意志を守ること、神の意志に従うこと、これは大事なことです。一方、イエスは十戒を破っているように思えます。神の意志である十戒を無視して、目の前の人を癒やしてしまう。イエスは、安息日を守ることよりも、いのちの解放が優先されるとおっしゃっているように思えます。安息日に縛られて、いのちの解放を後回しにすることに対して、偽善だとおっしゃっている。

もちろん、安息日を聖とするという十戒の言葉が語っている生活のための仕事をしないことは、神を信頼して生きることを意味しています。自分で自分を守るところから解放されて、全面的に神に信頼して生きる日が安息日です。それでも、会堂長が言うように、わざわざ安息日に癒さなくても、他の日でも良いと思う人もいる。イエスがこの日に癒しをしないで、「明日癒してあげるから、わたしのところに来なさい」と言えば良いと。そうすれば、論争も起こらず、会堂長も面目を潰されることはなかった。イエスは、あえて安息日に癒しているように思える。あえて論争をふっかけているようにも思える。「偽善者たちよ」と批判されて、会堂長たちは面白くないでしょう。だから、「亡き者にしよう」という気持ちが起こるとしても不思議ではない。イエスは、あえて安息日に、この女性を癒したのでしょうか。会堂長たちからすれば、そう見える。

イエスにしてみれば、この女性に今日出会わせてくださった神の意志を無視できなかった。18年を苦しんで生きた女性、悪霊に縛られて弱さから解放されたいと生きてきた女性。この女性に弱さの力を伝えたいと思うのは当然です。ここに導いてくださった神の力が、あなたを弱さから解放してしまっているのだ、と宣言したのも当然です。彼女の上に手を置いたことが癒しだとすれば、触れなければ良かったのでしょうか。イエスが癒したというよりも、神の力に信頼するようにと、手を置いたのだと思えます。確かに、イエスの言葉を聞いて、曲がった腰がまっすぐになった。言葉と接触だけなのに、端から見ればやはり癒しという大変な働きが行われたと見えるでしょう。確かに、驚くべき出来事です。これを放置していれば、安息日律法が壊されると、会堂長がムキになるのも分かります。

イエスは、安息日を壊そうとしているわけではありません。でも、端からみればそう見える。そして、安息日を守る側からはイエスは嫌われる。「とんでもないやつだ」と。イエスは、あえてそのような立場にご自分を置いたのでしょうか。そう。この女性に出会わせてくださった神の意志に従うために、あえて嫌われることも引き受けた。あえて、「偽善者たちよ」と批判もした。それは、神の意志、神の働きに従って生きることを優先したからです。

イエスが優先した神の意志は、いのちを解放する意志です。いのちを縛ることなく、解放する神の意志。安息日はそのためにあると、伝える。これが、イエスが伝えたい神の意志なのです。この神の意志を生きないままに、安息日を守るとか、安息日を聖とすると言っても、虚しいだけです。わたしたちもまた、ときに会堂長のように自分の領域や自分の仕事を守るために、本質的なもっと大切なものを抑えつけることがあります。見ないようにすることがあります。そのとき、わたしたちはいのちの解放ではなく、いのちの閉じ込めに加担しているのです。

わたしたちは、目に見えないところで働いておられる神の意志に従って生きているでしょうか。いのちの解放のために「如何に生きるか」、「如何に行うか」と、生きているでしょうか。「行わないこと」ではなく「行う」こと、「生きる」ことを自分の頭で考えて生きているでしょうか。本質的神の意志があってこそ、すべては存在しているのです。この神の意志に従う者として歩み出す一人ひとりでありますように、キリストの助けを祈り求めましょう。

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