「裂け目を越えるもの」

2025年9月28日(聖霊降臨後第16主日)
ルカによる福音書16章19節-31節

今日のイエスのたとえは、「人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。」という言葉を教えるために語られています。人の思いと神の思いの間には、大きな裂け目があって、これを越えることは誰にもできないということでもあります。

今日のたとえには救いがありません。慰めもありません。この世で上手く生きた人は、あの世で苦しみ、この世で苦しめられた人は、あの世で慰められると、イエスはたとえで語っているように思えます。さらに、これを人間の側から越えることなどできないと言われていますから、救いがないのです。唯一の救いは、モーセと預言者に聞くことだけだとイエスはおっしゃっています。つまり、聖書をちゃんと読みなさいということです。しかし、聖書を読んでいれば、自動的に越えることができるということでもありません。
何故なら、聞く耳がなければ聖書をいくら読んでも、自分のうちに受け入れることはないからです。ですから、このたとえには救いがない。では、どうしたら良いのでしょうか。結局、聖書を読むことしかないということに戻るのです。

イエスのたとえはこうなっています。金持ちは、自分の家の門前でものもらいしているラザロを知っていたでしょう。しかし、何もしなかった。彼が苦しんでいるままに放置していた。この世で生きていたように、自分に返ってくる。それゆえに、あの世では彼が放置される。だとすれば、彼には救いはないということです。あの世に行ってから、それが分かってもどうにもしようがないということです。

それが分かったので、自分の家族にこのことを伝えたいと考えた金持ちは、ラザロを派遣して欲しいと言います。どうして、自分が復活して家族に伝えようとしないのかはわかりませんが、ラザロが復活して、金持ちの家族の前に現れたなら、彼らは聞くだろうと思ったわけです。しかし、アブラハムは言います。「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。」と。金持ちは、自分と同じように、家族が聖書を読んでいないことを知っていたのでしょう。ラザロが復活して現れたなら、家族は聞くだろうと再度願います。ところが、アブラハムはこう答えます。「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。」と。死者の復活を信じる者は、聖書をちゃんと読んでいる人だということです。聖書も読んでいない人が、死者の復活など信じないし、復活して現れても、信じないだろうと言います。その通りです。

復活は聖書を読んでいる人が信じることです。聖書を読まない人は信じない。さらに、聖書を読んでいれば、生き方は変わっているはずだとイエスはおっしゃっているのです。それは、自分が悔い改めて、生き方を変えるということではなく、神の言葉が読む人のうちに働いて、神の許へと連れ帰ってくださるということです。聖書を読む人は、必然的に神の許へ連れ戻されているということです。もちろん、ちゃんと読んでいるかどうかにかかっています。そのために聖書は書かれているのですが、ちゃんと読む人は耳のある人であって、耳がないならば読んでも読んでいないということです。

今日のたとえは、聖書を読みなさいという勧めのようですが、読んでも読んだことがあなたのうちに働くかどうかは、あなたが聞く耳を持っているかどうかだということになります。従って、人間から神に近づく道はないということです。絶望的ですね。

この金持ちは、ラザロを見捨てなければ、このようにならなかっただろうと考えています。それで、家族に伝えたいと思っているのです。自分がこんな苦しい状況に置かれていることを教訓として、家族が貧しい人たちを助けるならば、あの世で苦しむことはないだろうと考えたのです。この考え方そのものが、貧しい人たちのためではなく、自分のための思考だということに、この金持ちは気づいていません。彼は、死んだ後も、人を使うことばかり考えています。

一滴の水で良いから、ラザロに自分のところに持ってきてもらいたい。ラザロが復活して、家族に伝えてもらいたい。深い裂け目を作っているのが自分であることに気づいていない。自分のために他人を使う人。自分は何もしないで、他の人に動いてもらおうとする人。このような人は、どこにでもいます。わたしたちも同じではないかと思えます。わたしはできないので、わたしの代わりに誰かに責任を負ってもらって、わたしは責任を負わなくても良いようにしたい。そうできるなら、誰でもそうしたいでしょう。しかし、自分が負わなければ誰が負うだろうかと考える人は、自分で負うのです。これが、聞く耳のある人です。

誰かが苦しい状況にあるのを見て、助けようと思う人は、相手の苦しみを自分のことのように見て、聞いている人でしょう。それと同じように聖書を読んでいる人は、聖書の言葉を自分のこととして聞いているのです。そのような人が、聖書をちゃんと読んでいる人でしょう。聖書を毎週聞いて、毎週自分を見詰めている人は、聞いているでしょう。今週も生きていくために、みことばが必要なのだと聞いている。もちろん、毎週礼拝に出ているからと言って、そうなっているとは言えません。自分のためにイエスさまが語ってくださっていると聞いていなければ、聞いているとは言えないのです。

そこまで言われると、この金持ちと同じだと誰もが思うでしょう。それで、心を入れ替えるか、というと、そうでもないのが人間です。何故なら、人は変わらないからです。もし、変わるとすれば、その人は聞く耳を開かれたということです。では、どうやって耳を開かれるのでしょうか。神が語ることによって開くのです。神の言葉が開くのです。

人間が耳を開こうとしても、開くのは自分が開きたい方向だけです。開きたくない方向には開かない。そうであれば、神さまが開いてくださらなければ、わたしたちは神さまの言葉を聞かないということです。神さまが開いてくださるのは、聖霊の働きを通してです。神さまの霊である聖霊が与えられることによって、わたしの霊では分からない神さまのことが分かるのです。この聖霊を受けるにはどうすれば良いのかと考える人は受けることはできません。あなたの力を捨てなければ受けることはできない。自分の力を捨てて、ただみことばの中に自分を投げ入れ、みことばに自分を委ねる人。そのような聞き方をしている人には、神の言葉が入ってくるのです。そして、自分の罪深さが見えてくる。そのために、今日のイエスのたとえは語られています。金持ちは絶望するしかない。救いがない。そこにおいて、はじめて金持ちは何者でもない自分を知るのです。

ラザロは何もできずに死んだのです。ラザロが復活して、金持ちの家族のところに現れても、馬鹿にしていたラザロの言うことを聞くはずはないのです。彼らは、この世のことしか考えていないからです。まして、神の言葉を聞いてもいなかったのです。自分たちの力しか認めなかったのです。だから、神の言葉など聞くはずはないのです。

彼らも死んで、苦しむとき、ひとり自分の力に絶望するとき、ようやく神に祈るでしょう。そこまで行かなければ、聞く耳は開かれないのです。金持ちが死んでもなお、ラザロを、他者を、自分のために使おうとしたことと同じように、この世で生きてきたようにしか人は生きないのです。ここから脱け出すには、自分の無力を知り、神の力に頼る信仰が必要なのです。

このたとえに救いがないのは、自分に絶望することが救いの道に入る入口だからです。それこそが、唯一の救いなのです。みなさんはラザロが聖書を読んでいたと思いますか。聖書など手元に持ってもいなかった。ラザロは、金持ちの門前で絶望するしかなかった。何もできないままに、彼は死んだ。そして、何もできない自分のままで、アブラハムの懐に迎えられた。その姿は、聖書を聞いている姿と同じ、起こった出来事を神の意志と受け入れている姿。聖書は、人間の力で救いを獲得することはできないことを語っているのです。ただ、神の力だけが救うということを語っているのです。だからこそ、自分の力を捨てること、自分自身を憎むことこそが救いであると、イエスは語っておられる。哀れな罪人である自分自身に絶望するあなたのうちに、イエスが生きて働いてくださる。イエスもまた、十字架の上で自らの力を捨てて、神の力に信頼した。イエスを生かし給うたお方の力が、あなたのうちで働いてくださる。神の力にすべてを委ねる信仰のうちに生きていきましょう。

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