2025年10月5日(聖霊降臨後第17主日)
ルカによる福音書17章5節-10節
わたしたちは、何かを命じられたとき、命じられたことを行うことで、ご褒美がもらえると思いがちです。しかし、命じられたことは行うべきことであって、わたしがそれを行ったからと言って、誉められるということではありません。
ところが、一般社会にあっては、誉めて使うという考え方が一般的になっています。誉めて上げなければ、「おれたちは奴隷じゃない」と言われることもあるでしょう。今日、イエスが言う「しなければならないことをしただけです」と言う人はいません。これだけのことをしたのに、感謝もないと文句を言うものです。「自分の仕事をしただけでしょう。」と言うと、「ひどい人」ということになります。どうして、このような考え方になってしまうのでしょうか。それは、何かを獲得したいという人間の思いがあるからです。自分が何者かでありたいという思いがあるからです。わたしたちは誰かに認められたいのです。
ここで、イエスが語り掛けているのは「使徒たち」です。使徒という言葉は「派遣された者」という意味です。イエスによって派遣された者が使徒です。ですから、派遣された者はすでに選ばれているわけです。選ばれているのは、派遣された働きを行うことができるようにされているということです。もちろん、彼らが「信仰を加えてください」ということは、自分で「信仰」を判断しているわけです。「もっと信仰があれば、いろいろできたのに。」と思っているわけです。それに対して、信仰は「からし種一粒」で十分な働きをなすのだとイエスはおっしゃった。ということは、派遣された使徒たちは、信仰が分かっていなかったということです。
自分が行った働きの大きさで、自分の信仰を測ろうとしていたということです。このような使徒たちの思い違いをイエスは指摘したのです。そして、信仰が「大きい」、あるいは「小さい」などと言うこと自体が間違いだと教えておられるのです。信仰はただあるだけで、さまざまなことを引き受けて生きる力となるのです。自分にはできないと思えることであろうとも、神さまが与えてくださった働きだと信仰をもって受け取るならば、その働きを支えてくださるのが神さまなのです。引き受けなければ、支えようがないのです。引き受ける前に、「わたしにはできない」と言ったり、「もう少ししたら引き受けます」と言うことは、自分でできるかどうかを考えているわけです。そのような自己判断は、派遣された人がすることではないのです。派遣したお方に信頼していれば、派遣したお方が支えてくださる。
さらに、使徒パウロが言うように「今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされています。」ということが派遣された者に起こるのです。派遣された者が自分の栄誉を求めるなどということはないのです。むしろ、世の屑と言われ、滓と言われることを引き受ける。そう言われても、なすべきことをなす。それが派遣された者だと、イエスはおっしゃっているのです。だとすれば、イエスは、与えられたものを引き受けるように弟子たちに勧めていると言えます。
もちろん、信仰というものは、神さまがわたしたち一人ひとりのうちに働いて、信じる者にしてくださる出来事です。ですから、自分が信じている感じがするとか、こんなことができたのもわたしの信仰の力だと言うことはできないのです。むしろ、このようにしてくださった神に感謝しますと、神を誉め称えることが派遣された者の在り方でしょう。そのように、神を誉め称えることは、信仰を素直に受け取っている人にできることであって、信仰を獲得したとか、自分の信心力だと思う人にはできないのです。なぜなら、自分の力で神を信じると思っている人は、信じていないからです。
神さまを信じるということは、神さまにすべてを委ねて、自分が感じることができなくても、神さまが働いてくださることを信頼することだからです。自分が働いた後は、神さまがなしてくださったことを確認して、感謝するだけです。そうであれば、わたしが何かをなしたということではなくなります。神さまがなしてくださったというところに立つのです。そのとき、わたしたちは派遣された者として生きていることになります。
わたしたちキリスト者は、自分で救われたわけではありません。自分ではどうにもならないわたしが、キリストの言葉によって、神さまにすべてを委ねるように導かれた。その結果、信仰を与えられた。関根正雄という神学者は、信仰についてこのように述べています。「神の言葉が語られると、その中に身を堅くすること。それが信仰です。」と。つまり、神の言葉の中に自分を投げ入れることが信仰だということです。それはまた、自分が信じることができると判断して、投げ入れるわけではありません。ただ、投げ入れる。
そのとき、わたしは神のお働きによって、信じるように導かれているのです。そして、神のご意志を知るところへと導かれるのです。そのようにされたとき、わたしは、わたしの思いではなく、神さまの思いに従って生きる者とされている。神さまの思いに従って生きるとき、わたしは自分が行ったことを誇ることはありません。むしろ、行わせてくださった神さまに感謝するのです。このようなところへと導いてくださるのが、神の言葉であり、イエスの言葉なのです。ですから、今日のイエスの言葉も、そのために語られているわけです。
とは言え、今日の言葉はちょっと厳しいのではないかと思う方もいるでしょう。「その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。」とイエスはおっしゃっています。そして、主人は僕に感謝するだろうかと言うのです。現代だと、「パワハラ」と言われそうですね。食事を用意する僕がいない主人のようですが、普通ならそんなことはないと思えるという人もいます。イエスは、極端なたとえをしておられるのでしょうか。
このたとえでイエスがおっしゃりたいことは、極端なたとえではあっても、究極の信仰的態度とはどのようなものであるか、ということです。自分の成果を誉めてもらうために、仕事をするのかということです。仕事というものは、与えられた職務です。ですから、その職務に忠実に仕えることが、仕事をするということです。その仕事の契約をして、賃金をもらっているのですから、契約通りに行うことが仕事をすることです。しかし、人間というものは、認めてもらうことを求めます。派遣された者が「信仰を加えてください。そうすれば、もっと良い仕事ができます。」というのはおかしいと、イエスはおっしゃっているのです。仕事を与えられたということは、仕事ができるようにしてくださる神さまが働いておられるのだというところに生きることです。ですから、「わたしはこれだけ努力しています」というのは仕事を与えてくださった神さまを信頼していないということになるのです。信頼していれば、自ずと自分がなすべきことが分かってきます。それは、派遣してくださったお方の力を信じて、黙って取り組むということなのです。これができないとすれば、引き受けていないことになります。
信仰は大きい、小さいというようなものではなくて、引き受けて行けば、自ずと信仰が働いて、良い働きができるようにしてくださるということです。このように引き受ける人を、神さまは支えてくださるのです。それなのに、自分の成果を求めるあまり、「もっと、信仰をください」という派遣された者には何も与えられないのです。何者でもないというところに立ってこそ、信仰は働くのです。信仰は、自分が確認するようなものではなくて、行った後で、「神さまがこのようになさせてくださった」と感謝する心に至るものです。だからこそ、イエスは「取るに足りない僕です」と言いなさいとおっしゃる。つまり、わたしは何者でもありませんと認めることです。そのように認めることができない人は、何もできないままということです。ただ、それだけのことをイエスはおっしゃった。
わたしたちは、イエスこそ、取るに足りない僕ですとおっしゃったお方であると知るべきです。イエスは、十字架の後で、わたしはこんなに頑張ったとは言わなかった。わたしはこんな苦しみを担ったとも言わなかった。復活して、弟子たちに現れたイエスは「あなたがたに平和があるように」と言われただけです。このイエスが、わたしたちにご自身を与えてくださる聖餐は、イエスと同じように生きる力を与えてくださる神の賜物です。
あなたが、召された者として、派遣されたところで、なすべきことをなすようにと、ご自身を与えてくださるイエスの体と血に与って、出かけていきましょう。あなたはイエスに派遣されるのです。あなたのうちで働いてくださるイエスとひとつとされる聖餐を通して、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」というところに生きていきましょう。