「祝福を受ける者」

2025年11月2日(全聖徒主日)
ルカによる福音書6章20節-31節

本日は全聖徒主日です。すべての聖徒たちを覚える日ですが、聖徒とは天に召された人たちだけのことではなく、わたしたちキリストに従う者たちはすべて聖徒なのです。もちろん、この考え方はルーテル教会の考え方です。ローマ・カトリック教会では「聖人」と呼ばれる人たちが聖徒なのですが、使徒パウロはキリストの福音を聞いて、従っている人たちのことを聖徒と呼んでいます。ただし、ガラテヤの人たちには聖徒たちとは言っていません。キリストに従っていたところからこぼれ落ちそうになっていたからです。それは、彼らを本来の神の民として呼び戻そうとしているからでした。

洗礼を受けて、キリストのものとされた人たちはすべて聖徒です。人はキリストのものとされることにおいて聖なる者、つまり神のものとして生かされて行くからです。たとえ、この世の考え方に流されていくとしても、その人は一旦キリストに結ばれる洗礼を受けているので、戻ることができるということでもあります。しかし、戻らないならば、自分から聖徒であることを捨てているわけです。自分からキリストから離れる、キリストを捨てるということは、自分で何者かであろうとするということです。聖徒とは、自らを何者でもない者として、神に委ねた人たちなのです。

今日の福音書の言葉が、この全聖徒主日に読まれるということは、そのような意味があるのです。

聖徒は祝福されている人たちですが、この祝福されている人たちは「貧しい者たち」、「空腹な者たち」、「泣いている人たち」、「除け者にされる人たち」と言われています。どうして、祝福されているのに、この世で除け者にされ、貧しくて、泣いていて、空腹なのでしょう。天に召された人たちは、このような人たちだったのでしょうか。この貧しさや嘆きや空腹は神さまが満たしてくださるのですが、除け者はどうでしょう。除け者にされている人たちを、神さまは受け入れてくださる。人間に受け入れられないで、排除される人たちを神さまは受け入れてくださる。だからこそ、神さまの祝福を受け取る人たちなのです。彼らこそ、祝福されている人たちです。

このような人たちは、金持ちとラザロのたとえで言われているラザロのような人でしょう。自分の力ではどうにもならない状況に置かれた人たちですが、彼らを顧みてくださるのは神さまなのです。人間は顧みてくれないとしても、神さまが顧みて、受け入れてくださる。だからこそ、祝福されている人たちだと、イエスはおっしゃるのです。

反対に「呪われている人たち」、「不幸な人たち」とは、この世で富んでいて、満腹で、笑っている人たちです。自分たちは、何でもできるし、世の中から認められていると思っています。面白いほどに、自分の思うように世界を動かせると思っています。このような人たちが呪われて、不幸な人たちだとイエスはおっしゃっています。この世の見方とは反対なのです。

この世は、人間の能力によってどうにでもなる世界だと思われています。本当に、どうにでもなる世界なのでしょうか。現代の環境問題や格差の問題は、イエスが対照的に示してくださったような隔たりを感じさせます。この隔たりは、人間が作り出したものです。ですから、人間が作り替えなければなりません。あるいは、人間が作り出したものが破壊され、新たに神さまが再創造してくださる必要があるとも言えます。そのような意味では、天に召された人たちは、この世の人間的なものすべてから離されて、神さまのものとして、神さまによって新たに創造された人たちだと言えるでしょう。使徒パウロが言うように、「死んだ者は、罪から解放されています。」(ローマ6:7)ということです。この地上で生きているわたしたちは、天に召された人たちに倣い、キリストに結ばれて死んだ者として、新たに生きていくのです。天に召されるときを待ち望みながら、生きていくのです。

全聖徒主日の礼拝を守るということは、わたしたちが地上を離れることによって、ようやく神さまのものとして生きることができる祝福を覚えることです。
地上を離れるということ。地上において「祝福だ」と言われることを離れること。反対に、排除され、貧しく、嘆き、空腹であることで、イエスが祝福だとおっしゃる神に従う生き方に導かれる。ということは、わたしたちの力を捨てることなのです。わたしたちはなかなか捨てることができない。それゆえに、神さまはわたしたちを天に召してくださる。天に召されることによって、地上に縛られているところから離される。これが幸いであり、祝福なのです。

アッシジのフランチェスコは、お金持ちの息子でしたが、すべてを捨てて、托鉢しながら生きる道を歩みました。聖なる貧しさを生きることを宣べ伝えました。その生き方は、ただ貧しくなることではなく、神によって貧しくなることでした。神によって、この世の価値から離れることでした。そのような人は、聖人と呼ばれて当然であろうとも思います。しかし、特別な聖人になることはこの世では難しくても、神さまが御手の中に迎えてくださるときがわたしたちにも来るのです。それが天に召されるときです。そして、わたしが離れることができなかった地上の価値から引き離されるときが来る。そのときを自分で来たらせることはできません。神さまがあなたを召してくださる。神さまのとき、神さまの力、神さまのご意志に信頼して、すべてを委ねざるを得ないようにしてくださる。それが、わたしたちが天に召されるときです。

全聖徒主日の今日覚えている天地創造以来のわたしたちの先達たちも、そしてついこの間召された人たちも、皆神さまが召して、ご自分の許に迎えてくださったのです。地上的なものから引き離して、ご自分の許へと連れ戻してくださった。この神のご意志こそが、今日イエスが「幸い」と言ってくださることなのです。

神の意志に従うということは、わたしたち人間にはすぐにできることではありません。それでも、神さまがご自分の許へと、わたしたち信じる者を召してくださることによって、ようやくわたしはわたしを捨てることができるのです。自分を捨て、自分の十字架を取って、わたしに従いなさいとおっしゃったイエスに、全面的に従い続けることはなかなかに難しいことでしょう。それでも、最後の最後に神さまはご自身の力によって、わたしたちを召してくださる。そして、わたしたちを完全に神さまのもの、聖なるものとしてくださる。

このような最後のときまで、気を落とさずに、神に従い続けることができるように、イエスは預言者たちの苦難を教えてくださっています。預言者たちが義しかったことは、聖書が語っている通りです。それにも関わらず、預言者たちは義しいことを語ったために、人々から嫌われ、排除され、苦しめられたのです。このようなおかしな世界がこの世です。だからこそ、この世に受け入れられることを求めることなく、神のご意志の義しさを信じ、従い続けることができるように、イエスは「彼らは祝福されている者だ」と宣言してくださった。

預言者たちも迫害され、貧しくされ、苦しめられ、嘆き祈り、空腹で過ごすしかなかった。しかし、神は彼らを預言者として召したように、ご自身の懐へと迎えてくださっている。イエスもまた、義しいことを語ったがゆえに、十字架に架けられた。義しいことを語ることなく、周りに忖度し、迎合して、生きているならば、十字架は避けられたでしょう。イエスは、十字架を避けなかった。神のご意志の義しさを宣教した。それゆえに、十字架に架けられた。

ご自身の十字架を見据えながら、イエスは今日の言葉を語っておられるのです。わたしたちもまた、このイエスに従う者でありますように。イエスがご自身の体と血を与えてくださる聖餐を通して、わたしたちは義しく生きる力を与えられます。信仰をもって受け取り、イエスについていきましょう。イエスは嘘をつかず、裏切らず、わたしたちと共に苦しんでくださる。そして、イエスと共に死んだ者は、イエスと共に生きるのです。この恵みに導き入れられていることを感謝して、歩み出しましょう。

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