「知らない時を待つ」

2025年11月30日(待降節第1主日)
マタイによる福音書24章36節-44節

「その日、その時は、だれも知らない。」とイエスはおっしゃっています。それなのに「だから、あなたがたも用意していなさい。」とおっしゃる。知らないのであれば、用意などできないと思えます。知らないということは、考えてもみなかったような時ということです。「思いがけない時」というのは原文では「考えていない時」のことです。わたしたちが考えていない時というのは、どのような時でしょうか。わたしたちはいつも考えているわけではありません。むしろ、考えている時の方が少ないかも知れません。いつも考えていると疲れます。夜も眠れません。しかし、人は必ず眠る。

そして、わたしたちは、いつも眠っているように生きているのではないでしょうか。何も考えず、これまでやってきたようにやっていれば良いと思っている。そうすれば、責任を取らなくても良い。前の人がやった通りにやっただけですと答えれば、責任は負わなくても良いという感じで生きている。それは眠っているようなものです。これがわたしたち罪人の思考。無責任な思考。眠っている思考です。

一方、責任ある行動や思考とはどのようなものでしょうか。「行ったのはわたしだ」ということをまっすぐに受け止めて、行動の責任を引き受けるのが責任ある行動と思考です。いつ何が起こるのか分かりませんから、責任はないと思いたい。確かに、すべては父なる神さまだけがご存知であって、わたしたち人間には先のことは分からない。しかし、やって来たときに責任をもって受け取ることを「用意していること」とイエスはおっしゃっているのではないでしょうか。その時が来た時に、うろたえないように自分の生き方を整えている「生き方の構え」というようなものです。それが「目を覚ましている」ということでしょう。

神の出来事が起こったときに、「これは神さまが起こした出来事だから、わたしがどれだけ抵抗してもことは起こって動いているのだから、従うしかない」と従うことです。それが「知らない時を待つ」という信仰の姿勢、生き方の構えです。この信仰の姿勢は、そのように生きていけば成功するとか、上手く行くということではありません。すべては神さま次第です。

功績思想というものがありますが、これは行ったことの報いが必ずあるという考え方です。つまり、自分の行いが良ければ良い報いがあり、悪い行いであれば悪い報いがあるという考え方です。ところが、ヨブ記や箴言やコヘレトの言葉が語るように、善人が貧しくなり、悪人が栄えるということがこの世なのだということを考えてみれば、功績思想で積み上げた報いというものは悪人の栄えと同じことになってしまいます。ルターは、このような考え方に陥っていた当時の人たちに、真実の福音を伝えようとしたのです。それが報いを自分で獲得するという考え方から解放されて、神さまの絶対的必然性に信頼する信仰の生き方なのです。

ピンチはチャンスという考え方がこの世にはありますね。これは、報いを求める考え方です。ピンチに陥ったとき、「これはチャンスなのだ」と捉え直すことで、新たな展開ができるというような考え方です。これを発想の転換と言いますが、発想を転換することで、困っている状態から栄える状態に変わることができるという考え方です。この考え方も栄えることを求めているわけです。結局、人間は報いを求め、栄えることを求める。そのために、聖書の言葉、神の言葉さえも使うということが起こるのです。荒野の誘惑の悪魔のようなものです。それが、ルターが批判した功績思想でしたし、具体的にはお金を払えば、天国に行けるという贖宥状販売だったのです。聖書にはそのようなことは何も書いていないのに。このような考え方は、人間が天国入りの準備ができるという考え方に陥っているわけです。

今日、イエスさまがおっしゃっているように「その日、その時は、だれも知らない。」し、「思いがけない時に来る」のであれば、準備などできません。そうであれば、「あなたがたも用意していなさい。」とおっしゃるイエスさまが求めているのは、生きる方向の転換です。それが、生きる構えでしょう。

わたしたち人間は、この地上で生きていますので、十分準備すれば上手く行くと思っています。その考え方を転換するとすれば、準備などできないという考え方に転換するわけです。その上で、何かが起こったとき、神さまが起こされたこととして受け入れ、従うという信仰的生き方を訓練することでしょう。これが信仰的構えであり、信仰者の立ち方です。それが、イエスさまがおっしゃる「目を覚ましている」ことです。

何に目を覚ましているのかと言えば、自分が準備して、備えることができるという幻想の夢から目を覚ますことです。そうすることによって、ようやくわたしたちは神さまの現実を正しく見ることができるのです。そして、神さまのご意志に従うイエスさまについていくことができるのです。このように構えて生きるということが、用意していることです。この生き方は、イエスさまご自身の生き方です。うろたえることなく、十字架を引き受けられたイエスさまの生き方なのです。だからこそ、イエスさまは「わたしについてきなさい」とおっしゃる。イエスさまのように生きるようにと招いてくださる。

では、どうやったら、うろたえることなく、まっすぐに立っていることができるのでしょうか。わたしたちは、イエスさまとは違いますから、動揺して、右往左往してしまうのです。そのようなわたしたちの愚かさ、優柔不断をイエスさまはご存知です。だからこそ、「用意していなさい」とおっしゃるのです。いつ何事が起ころうとも神の意志がなると受け入れる状態で生きていなさいということです。それが、何事にも対処できるような心構えでしょう。うろたえてしまうわたしが何事にも対処などできるはずがありません。しかし、わたしのそばに、堅く立っておられるお方がいるならば、大丈夫でしょう。わたしは強くない。わたしはどうにもできない。しかし、最悪の十字架さえもお引き受けになられたイエスさまがおられる。このお方がわたしの主、わたしの神であると信頼しているならば、わたしたちはうろたえることはないのです。イエスさまがわたしを立たせてくださるからです。

わたしたちが生きているのは、神さまの力があるからです。神さまがわたしを生かしてくださるからです。イエスさまも神さまによって復活なさった。このお方が、わたしのそばにおられる。それだけで、わたしたちはうろたえることなく立つことができるのです。イエスさまがおられるからこそ、わたしたちは大丈夫だと思える。このお方への信頼を持っていること。これが信仰です。この信仰がわたしを支えるのです。

ルターは、信仰が主体だと言いました。わたしが主体ではないのです。あなたは、与えられた信仰によって、すべてのことを引き受ける心構えを与えられているのです。一人は連れて行かれ、一人は残されるということを起こす主体は、あなたではなく、神であり、イエス・キリストなのです。

たとえ、困難な事態が起ころうとも、わたしの力で対処するのではない。起こった事柄の中に神が働いておられる。そのように信じる者には、何事であろうとも、神の出来事として受け取られるでしょう。たとえ、弱くされているとしても、弱さの中にも神さまが働いているのです。そして、受け取られたように生かされる。それが神の力です。だからこそ、「ただ、父だけがご存じである。」とイエスさまはおっしゃるのです。ご存知なのは父だけであるならば、父に信頼していれば良いということです。

わたしは何も知らなくても良い。父なる神さまに信頼している人は、父なる神さまが守ってくださる。すべてをご存知の神さまに自分のすべてを委ねて、信頼して生きていきましょう。あなたは神の家に住む人。神の守りのうちに生きる人。あなたを神の家の住人とするために、キリストはご自身の体と血を与えてくださる。キリストの体に入れられて、神の家に生きる者とされている幸いを生きていきましょう。

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