2025年12月7日(待降節第2主日)
マタイによる福音書3章1節-12節
わたしたちが何かを行うとき、その何かはわたしたちの中にイメージとしてすでにあります。わたしのうちに何もないことを行うことはありません。
「悔い改めにふさわしい実を結べ。」と洗礼者ヨハネは言っています。「悔い改めに相応しい実」というのはどのような実なのでしょうか。悔い改めたと誰もが認めるような実のことだとわたしたちは思うものです。つまり、悔い改めが見える形で示されるようなことですね。しかし、原文で見てみますと、「悔い改めの相応しさの実を実行しなさい」となっています。そうであれば、「悔い改めの相応しさ」というものをわたしが「実」として見せるというよりも、その「実」というものがわたしのうちにまずあるのです。ここでの重要な点は「実」を実行することではなく、「相応しさ」があって、実行が起こるということです。
この「相応しさ」という言葉は、「ぴったりしている」ことです。「悔い改め」と「実」とが必然的に結びついて実行されていると認められるような「相応しさ」ということです。それは、「悔い改め」を認めてもらうために実行される「実」ではありません。誰かに認められないとしても、自分の中に必然的にあるものが実行されていると自分自身で認めることができるような「相応しさ」ということです。
洗礼者ヨハネは、「ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。」と言われています。ファリサイ派やサドカイ派の人たちは、人に見せるためにやって来たということが、洗礼者ヨハネには分かったわけです。ですから、見せるために実行するようなものではなく、相応しさが必然的に現れているような「実」を実行しなさいと、言ったのです。
わたしたちは、人に認めてもらうために行うことが多いものです。誰からも認められなくても、必然的に実行するという人は少ない。なぜなら、わたしたち人間は、誰かに認めて欲しいと思っているからです。そのようなわたしたちが実行している事柄には、わたしたちが相応しいから実行しているのではなく、相応しいと認めてもらうために実行しているということが隠れているのです。認めてもらうことが目的となっている場合、そこで行われていることは、その人の心の底からの行為ではなく、表面的な行為となるのです。そして、いずれ化けの皮がはがれるということになります。
洗礼者ヨハネから洗礼を受けるということを、自分たちが認められるために利用しようとした人たちに向かって、必要なのは「相応しさ」なのだとヨハネは宣言したのです。このヨハネが言う「相応しさ」とは一体どのようなものなのでしょうか。それは、実行する主体が誰かということです。
わたしたちは、主体はわたしだと思っていますが、責任を逃れるときには、わたしは主体ではなく、使われているだけだと言い逃れします。このような言い逃れの考え方から生まれるのは、「考えない」という生き方です。自分で考えないということが、その人の習慣になると、考えているのは自分のことだけです。自分が認められ、受け入れてもらえて、社会の仲間に入れてもらえるように生きるために必要なことを考えています。
洗礼者ヨハネの許にやってきたファリサイ派やサドカイ派の人たちも、巷で有名な洗礼者ヨハネから洗礼を受けることで、自分の価値を認めてもらおうとしているわけです。彼らには、悔い改めも洗礼も自分が認められるための手段でしかありません。つまり、悔い改めていることを形として見せるために、洗礼を受けて、人に見せているのです。見せることが目的ですから、洗礼も悔い改めも手段なのです。そこに心はありません。
洗礼者ヨハネは、あなたがたには心があるのかと問うているのです。「悔い改めに相応しい実」というのは、悔い改めたことを人に見せるための実ではないのです。あなたが相応しい人だから、悔い改めが起こり、相応しい実が実行されるということです。この相応しさは、信仰なのです。そして、信仰を起こされた人は、自らが相応しくない人間であることを知っているのです。相応しくないことを知って、悔い改めて、洗礼を受ける。だとすれば、相応しくないことを認めた人が、相応しい人だということになります。また、その人が相応しいとすれば、「悔い改めに相応しい実」というものは、相応しくない人からは生まれないということを認めているということです。相応しくない人から生まれようがない「悔い改めに相応しい実」とは、神からしか生まれないということです。これを告白することが信仰なのです。この信仰を起こされた人が相応しい人なのです。
相応しくない自分が実行できる「実」はない。これを認める信仰が起こされているならば、相応しい「実」は神が実行させる「実」として生まれるのです。そこでは、見せるような「実」は実行されません。自分が主体的に実行したと誇れるような「実」はありません。ただ、神がわたしになさせてくださったのだと認める。この信仰に生きている人は、相応しい人で、相応しい実を必然的に実行しているのです。
ということは、「悔い改め」とは、今まで自分が主体であったところから、方向転換して、神さまが主体としてわたしを生かし、用いてくださっているというところに生きることなのです。このように言うと、そのような姿を人に見せるために行う人も出て来ます。その人は、結局自分を主体として生きています。わたしは神さまに従っていますと言いながら、実は神さまを出汁にして、自分がうまい汁を吸うことを求めているのです。人間という存在は、どこまでも自分が可愛い。これに気づいている人が、相応しい実を実行する人でしょう。
気づいていても、どうやって自分を変えれば良いのか分からないという人もいるでしょう。その人は、本当は分かっているのに、分からない振りをしているだけです。「自分を捨て、自分の十字架を取って、わたしに従いなさい。」とおっしゃったイエスは、自分を捨てることを求めています。自分を捨てなければ、十字架を取っても、自慢するだけです。人に見せるために十字架を取る人もいるということです。人間は、どのようなものであろうとも、自分を人に認めてもらうために、徹底的に利用するのです。そこから解放されるためには、信仰が起こされる必要があります。
この信仰は、自分で信じる信仰ではありませんから、自分ではどうにもならないのです。ただ、自分の思いを捨てて、神に委ね、なすべきことをなすだけなのです。そのような人は、何も自慢しませんし、誰かに見せようともしないでしょう。そして、言い逃れることもない。責任転嫁もしない。このように生きる人は、必然的にそう生きている。認められることを目的とはしないのです。ただ、なすべきことをなすだけ。そうであれば、わたしたちが目的を持つことが問題なのです。目標を達成しようとすることが問題なのです。
みなさんは、目的を持った行為をしていますか。それとも、必然的にそうしようと思ってしていますか。必然的に行っているならば、行ってもすぐに忘れます。そして、誰かに認められなくても、必要な働きをします。その人を見ておられるのが、天の父なる神さまです。隠れたわたしの内側を見ておられるのが天の父なる神さまです。このお方の前に生かされていることを知っている人が、悔い改めという方向転換をしている人です。神さまがわたしの主であると生きているからです。わたしがわたしの主であると生きている人は、神さまの前に生きてはいません。自分の前に生きている。さらに、他人の前に生きている。人間の前に生きている。神さまの前に生きている人は、嘘をつくことはありません。誤魔化すこともありません。正直すぎて、人からは疎まれるかも知れませんが、神さまはその人を見てくださっている。このように生きることが、「主の道を整える」ことであり、「主の小道をまっすぐに作る」ことなのです。神さまがわたしに向かって、まっすぐに来てくださることを求めている人です。あなたが、まっすぐに生きるために、キリストは来てくださる。あなたのところへまっすぐに来てくださる。心を開いて、お迎えしましょう。

