「何を見ているのか」

2025年12月14日(待降節第3主日)
マタイによる福音書11章2節-11節

今日の福音書の中でイエスはこうおっしゃっています。「わたしにつまずかない人は幸いである。」と。イエスにつまずくとはどういうことでしょうか。イエスは人々がつまずくようなお方だということです。それなのに、つまずかないとすれば、その人は神さまによって祝福されているという意味です。

わたしたち人間は、よくつまずきます。普通に歩いているときにつまずきます。何かつまずくものがあったわけではなくてもつまずくことがあります。どうしてなのでしょうか。気がつかないというよりも何もないとしてもつまずくとすれば、わたしの体が上手く動いていないからだと思えます。足がちゃんと上がっていないか、あるいはほんの小さな段差があってひっかかってつまずくこともあります。つまずくことは誰にでもありますが、大抵はわたしが思っていたようではなかったということが起こっているのです。それがほんの小さなことであろうと、わたしの思い込みと違うことがあるとつまずく。だとすれば、わたしたちの思い込みが災いしているとも言えます。

当時のイスラエルの民衆は、自分たちの国を失い、ローマ帝国の支配下に置かれていました。自分たちの国を再び興したいと誰もが思っていました。そのためにメシア、救い主がやってくると期待してもいたのです。「わたしがメシアだ」という人が出てくると、誰もがその人に期待しました。多くの自称メシアが出てきましたが、ローマ帝国の弾圧によって、十字架刑に処せられてしまった。イスラエルという国は復活しませんでした。そのような時代に、洗礼者ヨハネもイエスも生きていた。

誰もがヨハネに期待し、イエスに期待しました。ヨハネは、洗礼を宣べ伝えただけで、イスラエルという国は興されることはありませんでした。そのヨハネが、囚われの身となったあと、イエスの行ったことを耳にしたのです。ヨハネは、イエスの洗礼の際に、聖霊と火で洗礼を授けるお方だと語っていました。しかし、人々が悔い改めて、神さまのご意志に従うようにはなっていない。病人の癒しが中心で、福音を聞いているのは貧しい人だけ。イエスは、その事実だけをヨハネに伝えなさいと、ヨハネの弟子たちに言いました。「わたしは来るべき者である」とはおっしゃらなかった。ヨハネは聞いていたことを聞かされるだけ。イエスは「わたしにつまずかない人は幸い」とおっしゃるだけ。ヨハネもつまずいているのでしょうか。

イエスは、事実だけを述べておられる。その事実の中に神の働き、神の国を見るか否か。つまずくということは、自分が思い込んでいたようではないために、つまずくわけです。その思い込みは、皆が期待していることです。「こうなったら良い」と期待していること。それが思い込みです。そこにあるのは、自分は変わらなくて良いという考えです。自分は変わらないままに、メシアがローマ帝国の支配から解放してくれる。誰も、自分が変わることは考えません。

洗礼者ヨハネが宣べ伝えた「悔い改めの洗礼」も、一人ひとりが神に立ち帰り、悔い改めて生きることを宣べ伝えたのです。イスラエルを再び興してくれることはなかった。イエスが行ったことも、貧しい人たちには福音であっても、普通の人たちには何の恩恵もないと思えることだった。ヨハネもイエスも期待外れ。それで、人々は二人につまずいた。さらに、ヨハネさえもつまずいている。事実だけを伝えるイエスは、その事実の中に神が働いていることを見なさいとおっしゃっているのです。実は、それが悔い改めです。それで、イエスは「あなたがたは何を見に行ったのか」と言うのです。イエスに「あなたが来るべき方ですか」と尋ねるヨハネも結局は同じような期待を抱いているということになる。だから、ヨハネを預言者だと評価しながらも「しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」とおっしゃるのです。

今日の旧約の日課では、預言者イザヤがこう歌っています。「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ 砂漠よ、喜び、花を咲かせよ 野ばらの花を一面に咲かせよ。」(イザヤ書‬ 35‬:1‬)。どうやったら、荒れた地が花を咲かせることができるのかと思える。わたしたち人間が見ているものは、荒れた地に過ぎない。しかし、花を咲かせることができる。これが神の力だと神ヤーウェは宣言なさった。‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬

わたしたちが見ているものは、自分の力ではどうにもならないことです。しかし、見えているとどうにかなると思ってしまう。そのとき、わたしたちは何を見ているでしょうか。見えているものを起こしているお方を見ているでしょうか。

ヨハネさえも見えている事実を起こしておられる方を見ていないと、イエスは言っているのです。だからこそ、天の国に入っている最も小さな者でさえも、彼より大きいとイエスは言う。天の国に入っている存在は、大きいものも小さいものも神の働きを見ているということです。すべては神が働いておられるがゆえに起こっていると見ているのです。それが分からないで、イエスに「あなたは来たるべき方か」と尋ねる。それでは、天の国に入っていないことになると、イエスは答えたのです。地上で偉大な預言者だと言われる洗礼者ヨハネさえも、見えているものを起こしておられる方を見ていないのでしょうか。

神の働きを見ていない人たちは天の国に入っていない。しかし、素直に天の国に入っている人は神の働きの事実を義しく見ている。神の義しいご支配を見ている。見ることができるようにされていることが祝福です。なぜなら、天の国に入るのは、人間の力ではないからです。期待や思い込みでは見ようとしても見えないのが天の国だからです。思い込みとは違うところにある天の国。あくまで、神が天の国に入れるからこそ、幸いであり、祝福なのです。

この幸いを受け取るには、素直に、曇りのない目で世界を見る必要がある。しかし、人間には思惑があり、期待があり、自分が判断して、これこそ天の国だと思えるものが見えるはずだと思い込む。その思い込みに捕らわれて、神の出来事につまずく。神に目を開かれるままに見る人は、つまずくことがない。反対に、自分が神の世界、天の国のイメージを作って、平和な世界だと思いたい。しかし、イエスは「剣を投げ込む」と言い「火をつける」と言う。その言葉を聞けば、人々はイエスにつまずく。天の国は、自分を捨てていなければ見ることができない。神に見せられるままに受け入れる人だけが、天の国に生かされている自分を見る。

そのような目が開かれるようにと、イエスは群衆に問うのです。「何を見に荒れ野へ行ったのか」と。あなたが思い込んで期待したものを見に行ったのであれば、あなたは見てはいない、と。わたしが期待したように「来たるべき方」が来るはずがない。期待外れの仕方で、来るからこそ、驚き喜ぶ。だからこそ、「来たるべき方」を見出すのは羊飼いたちだった。期待されたところには来ない。期待していないところに来る。それが「来るべき方」。

誰も期待しない形で来る。誰も期待しない国を作る。わたしの思い込みから外れたことが神の出来事。その言葉、その出来事は、素直に受け入れる人にだけ見える。だからこそ、イエスは「自分を捨てよ」とおっしゃった。自分の期待を捨てなければならない。思い込みを離れなければならない。洗礼者ヨハネさえも分からないのに、あなたに分かるはずがない。それなのに、あなたがイエスに救いを見ているなら、あなたは幸い。ヨハネより偉大なのです。

イエスはつまずきを与える。あの頃は良かったと思い込み、昔を求める人にはつまずきでしかない。イエスが与えてくださる喜びは、あの十字架にしかない。あなたが救われたのは、あくまで救い給う神の御心によったのです。神の御心に従う心を起こされたときのあなたが、福音の中に入れられたあなたなのです。それだけで良いのに、この地上で何を求めるのでしょう。キリスト者として生きるということは、この地上の価値を捨てることです。思い込みを捨てることです。自分を捨てることです。ご自分を捨てて、十字架を引き受けてくださったイエスをそのままにお迎えしましょう。

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