2026年1月25日(顕現後第3主日)
マタイによる福音書4章12節-23節
みなさんはキリスト者になったことで、自分が変わったと思いますか。洗礼を受ける前とは違うと思いますか。もし、自分で変わることができたと思うならば、わたしたちは自分を動かすことができると思っているわけです。さらに、自分を動かすことができるだけではなく、他の人も動かすことができると思ってしまうことにもなります。
わたしたちキリスト者は、洗礼前の自分と比べて、今は違うように生きることになったと思うものです。違う世界を見ているとも思います。ところが、わたしの本質は変わっていない。罪深いわたしは依然として残っている。残っているわたし、罪人であるわたしを、わたしが変えることはできないのです。いえ、わたし自身は何も変わっていないのです。人間の方に向いて生きていたわたしが、神さまの方を向いて生きるように、向きを変えられただけだと言った方が良いでしょう。
わたしたち人間という存在は、キリスト者とされてもなお、自分が自分の力でキリスト者になったと思いたいのです。自分が信じるようになったと思いたいのです。自分が義しい道を選んだと思いたいのです。それが罪人としてのわたしの変わらない姿です。これを変えることは、わたしにはできない。それでもなお、神によって変えられたわたしは神のものとして生かされている。実は、神のものとして生かされることがキリスト者にされること。洗礼へと神によって導かれることです。
このようなことを言うと、何でも神さまの所為にするのは危険だと批判する人もいます。その人は、人間が自分にしか向いていないということを知らないのです。「自分を守るためならば、何でもします。」ということと、「神さまに従うために何でもします。」ということはどちらも同じ次元の言葉です。どちらも、自分が「します」と言って、行うことができると思っているからです。自分が中心であることに変わりはない。今、信じる者として生かされていることを、わたしが信じる者になったと考えるならば、わたしは神さまから与えられた信仰を生きているわけではないのです。
今日の弟子たちの召し、召命というものは、イエスに呼ばれてついていっただけです。それでもなお、マタイによる福音書19章27節でペトロはこう言っています。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」と。召された弟子たちでさえも、自分が捨てたと思い、自分が従ったと思っているのです。イエスによって変えられたのに、自分が変わったと思っている。わたしを変えて導いてくださったイエスに報いを求めるということは、罪人である自分の本質は何も変わっていないということです。それでも、イエスはペトロのこの問いに、新しい世になったとき、永遠のいのちを受けると答えています。それは捨てたからではなく、イエスに従ってきたからだと答えています。
今日の福音書で引用されている旧約聖書の言葉は、イザヤ書9章1節の言葉です。闇の中を歩いている民が大いなる光を見る。死の影の地で生活する者たちの上に光が輝く。これらの人々が何かをしているわけではなく、光の方が現れ、輝くのです。人間の側では自分の現状をどうにもしようがない。しかし、神からの光が輝く。この光がイエス・キリストだと受け取ったのが後のキリスト教会です。
闇の中を歩き、死の影の地で生活せざるを得ない人々は、自分たちで何か良くなることを行ったわけではないのです。彼らが良い人間になったわけでもない。闇の中で苦しんでいた。死に瀕していた。そのような人々の上に、神の光が昇る。イザヤはそう預言したのです。人間の愚かさ、罪深さは何も変わらない。闇の中を歩いているから善人だとは言えない。死に瀕しているから義しい人だとも言えない。それでもなお、神の憐れみが彼らの上に昇る。神さまの一方的な救いが現れる。これが、イザヤが預言した神の言葉なのです。
そのような神さまの一方的な働きの中で、神さまの救いを受け取ることだけが人間にできること。それが可能とされているのは、何もできない人たちだとも言えます。もはや、わたしには何もないと自分の力に頼ることを放棄する。人間の力に頼ることを放棄する。そのような人たちの上に、神の光が昇る。それこそが生きる方向の転換、悔い改めなのです。
今日の福音書に記されている弟子たちの召命の出来事も、弟子たちが良く考えて、イエスについていったというわけではないのです。イエスに召されたので、何も分からないままに、イエスについていった。すべてを捨てる決断をしたのではなく、ただついていった。それは、イエスの言葉に引きつけられ、ついていった出来事です。彼らは捨てようと決断して捨てたわけではないのです。イエスについていくことによって、それまでのものを後ろに残して前に向かって行っただけなのです。
来なさいと言われて、ついていった。おかしな人たちだと普通は思うでしょう。しかし、彼らは突然の招きに、すぐに従った。何も判断してはいないのです。彼らが、救い主を探していたわけでもない。いつもの仕事をしていただけ。そこにイエスの声が聞こえた。わたしに従いなさいと聞こえた。弟子たちは、聞こえた声に従っただけ。なぜか知らないけれど従った。それが彼らの救いなのです。
もちろん、イエスに従った結果、彼らも迫害されることになりました。その迫害も必然だと受け入れて、イエスに従った。あるがままに生かされていることを受け入れた。そこにこそ、人間の救いがある。弟子たちのイエスに従う姿にこそ救われた者の生き方があるのです。起こってくる出来事に抗うことなく、引き受けて生きる。この力は、自分の力を捨てているからこそ働いている神の力なのです。
イエス・キリストが宣べ伝えた福音は、「悔い改めよ。天の国は近づいた」というものでした。それまでは、天の国に入るために、人間が努力することが必要だ考えられていたのです。それが、反対になった。天の国の方が人間たちに近づいたとイエスは宣言したのです。神さまの働きがあなたがたに働きかけてくださると宣べ伝えたのです。だから、悔い改めなさいと宣べ伝えた。この悔い改めは、向きを変えることでした。生きていく向きを変えることが悔い改めです。人間が努力して天の国に入るという生き方から、天の国の方が近づくことを受け入れるように生きる。そのとき、わたしたちは神さまのものとして生きることが可能とされる。これこそが福音、喜びの知らせです。
人間が努力して天の国に入るならば、福音ではない。喜びの知らせではない。努力すれば入ることができるなどということは、贈り物ではないし、恵みとは言えない。努力して救われるのであれば、自分が自分を救っただけです。それを救いとは誰も言わないでしょう。良く頑張ったと、自分を褒めてやりたいと言うだけでしょう。神さまに感謝することはないのです。それでは、ただ人間的な努力の成果を誇るだけになってしまう。そして、神のようになることでしょう。このように努力すれば、何でもできるのだと自慢することにもなる。実は、これこそが最初に造られた人間が陥った罪なのです。
この罪から救うために、キリストは来られた。努力すれば何でもできるという生き方から、あなたを解放するために、キリストは来られた。人間世界を動かすことができると思い上がる生き方から解放するために、キリストは来られた。神から離れたわたしたち罪人を、神の許へ連れ戻すために、キリストは来られた。十字架の死を通して、神に従い通す道を示すために、キリストは来られた。
もちろん、従い通す努力が必要だと思ってしまう人もいます。しかし、神に従うことは、自分の力ではできないと、受け入れるだけなのです。それだけで、わたしは神のものとして生きることが可能とされる。ルターが好んだ聖句、「力を捨てよ。わたしは神。」という詩篇46編の言葉が語っている通りです。わたしたちは、神さまが造られた日々の中で、その日を喜び生きていくだけ。神さまに感謝して生きていくだけ。それだけで、わたしたちは救われているのです。一日一日を喜び生きていきましょう。

