「大いなる小さな者」

2026年2月8日(顕現後第5主日)
マタイによる福音書5章13節-20節

先週の日課で、祝福されているとイエスが宣言した祝福されている人たち。迫害を受け、苦しみ、悲しみを抱えている人、小さくされてもなお、誠実に生きている人びとのことを今日の福音書では、「地の塩、世の光」と呼んでいます。塩味として働き、部屋全体を照らす働きをしているのが、小さくされている人たちだと言っているようなものです。その働きができるのは、小さな掟を大切に守ることを通してであると、イエスはおっしゃっています。

小さくされているからと言って、大きいことを求めるのではなく、目の前の小さなことを大切にしなさいということでしょう。それができるのは小さくされているあなたがたなのだということです。それで、「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」と、イエスは最後におっしゃっているのです。これは、人々が認めてくれるような大きな義を行いなさいということではないのです。むしろ、律法学者やファリサイ派の人々が行わないような小さな義を誠実に行いなさいということです。

わたしたちの社会にあっても、日常のほんの小さなことに思えても守るべきルールや法律があります。それらを守らなかったとしてもあまり変わらないこともあります。たとえば、横断歩道を渡るときに歩行者信号が赤でも渡るということがあるでしょう。車が通っていないから、待っているのは意味がないと思うものです。しかし、ことが起こったときに守っていなければわたしは守られません。このような小さなことは、わたしたちの日常にたくさんあるでしょう。

小さなことだから気にする必要はないと言う人たちがいます。悪徳を行なっているわけではないのだから、こんな小さな誤魔化しをとやかく言う人がおかしいのだと言う人たちがいます。そうなのでしょうか。わたしたちの社会にあっても、守るべきものは守るべきものです。それを破っても良いとは誰も言わないでしょう。もちろん、律法の小さな掟も、同じように守るべきものとして定められている。小さなことだから、誰も気づかない。誰も気にしていないと言う人が多い。そのような人は、天の国では小さな人だとイエスは言うのです。小さいことを大切にできない人は小さな人と言われる。そのような心は、神さまから見れば、小さく貧しい心だということでしょう。もちろん、その貧しさは義しさを求める霊的な貧しさとはかけ離れた、見た目だけを繕う心の狭さ、貧相な心です。「だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。」ように生きている人たちなのです。

「しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。」。つまり、この世で小さな者として排除され、除け者にされている人でも、誠実に神さまの言葉に信頼して生きている人は「大いなる者」だということです。この言葉をよくよく考えてみる必要があります。

小さな掟も神の意志です。小さいから破っても良いとは言えない。当たり前のことですが、人間は物事の大小で勝手に判断してしまうものです。そこに人間が抱えている罪が働いています。小さなことをおろそかにしていると、大きなことでもおろそかになる。掟の大小ではなくて、掟に従う人間の心の大小だとイエスはおっしゃっているのではないでしょうか。

人間的には、多少のことは大目に見れば良いと思うものですが、そのような心は神さまに向かっていないのです。「そんな小さいことにまで真面目に取り組む必要はない」と思う心は、自分の判断です。神さまは小さいことまで、心を尽くしてくださっています。神さまは、この小さなわたしのためにすべてのことを整えてくださっています。取るに足りないとわたしが思うようなことを毎日整えてくださっています。わたしたちが気づかないようなことを整えてくださっています。誰も行わないとしたら、困ってしまうようなことも、神さまは毎日行なってくださっています。神さまが、「こんな小さなことはしなくても人間は気づかないだろう」と言って、行なってくださらなければ、わたしたちは生きていけるのでしょうか。天から雨を降らせることも、太陽を上らせることも、神さまが毎日行なってくださるから、わたしたちは生きていくことができるのです。この大いなる神さまのお働きを毎日感謝しているでしょうか。気にもしないで、過ごしているのではないでしょうか。そのように生きている人間は、自分は神さまの掟を大小に分けて、小さいことについてはいい加減に生きている。自分が大事だと思う、大きなことだけしていれば大丈夫だろうと生きている。そのような生き方を、イエスは天の国で最も小さいとおっしゃるのです。

塩が塩味を失うということは、塩味を使っているからです。何のために使っているかご存知でしょうか。古代では、土の炉では動物の糞を燃やしていたそうですが、糞に塩の板を入れておくそうです。そうすると燃えやすくなるようです。塩は、わたしたちの体のためにも大切です。料理でも塩があることで、味に深みが増す。塩は、目立つことなく、他の味を引き出しているわけです。また、塩は清めに使われてもいました。そのように目立たないけれど、大切な塩があなたがた小さくされている人たちなのだとイエスは教えてくださった。

町も山の上に建てられているから、人々は町を目指すことができる。ランプもランプ台の上にあるから、部屋全体を照らすことができる。その光を枡の下に置いて、隠してしまうならば、部屋は暗くなってしまう。同じように、小さくされて、取るに足りないと思われる人たちが目立つところにいるから、社会の問題が明るみに出る。目指すべきところが明らかになる。貧しく、悲しむ人たちが、社会の問題を正しく見せてくれる。それなのに、人々は彼らを枡の下に隠してしまう。自分たちの町には問題はないと誤魔化すために。

小さくされている人たちは、神さまが必要としておられる地の塩、世の光。弱っている人がいるから、助けようとする人がいる。貧しい人がいるから、分かち合う必要が生まれる。神さまの律法には、そのようなことも記されている。それなのに、社会は小さくされている人たちを忘れて生きている。小さくされている人たちもまた、大きくなることを求めて、小さいことを蔑ろにすることも起こるでしょう。だからこそ、彼らにもあなたがたの義がファリサイ派の人たちの義に優っている必要があるのだと、イエスは言うのです。その優り方は、大きなことではなく、小さな自分自身を通してなすべきことなのです。

わたしたちは、小さくても罪人。大きくても罪人。いずれにしても、人間は罪深い存在なのです。だからこそ、小さなことから始めて、小さなことにも大きなことと同じように心を尽くしていかなければならないのです。それは、神さまに怒られるからではありません。すべての人が生きていくために、必要な小さなことがたくさんあるからです。小さなことを忘れては、すべての人が生きていくことができなくなるからです。

毎週、掃除してくださる方々がいることで、わたしたちは快適に教会を利用することができています。毎日、周りを掃いてくださる方がいる。聖餐のパンを焼いてくれる人がいる。礼拝堂の椅子を並べてくれる方、片付けてくれる方。ゴミを出してくれる方。洗い物をしてくれる方。ホワイトボードを綺麗に消してくれる方。テーブルを出して、片付けてくれる方。コーヒーやお茶の用意をしてくれる方。炊き出しの奉仕を担ってくださる方々。炊き出しの奉仕のために、献金してくださる方々。一つひとつは小さなことかも知れません。でも、それが無くなると、「いつものあれはどうした」と思うでしょう。そうそう、オンラインの配信を担当してくださる方がいるから、教会に来ることができない方もオンライン礼拝を守ることができます。掛川菊川教会の皆さんも礼拝を守ることができます。小さなことの積み重ねで、わたしたちはお互いに支え合って生きているのです。神さまはそのような一人ひとりの思いを起こしてくださっています。

小さな掟を守るということは、わたしたちが生きていくこと、一緒に生活していくことにつながっている。互いのいのちを守ることにつながっている。このことを忘れないようにしましょう。

あなたの周りにも、小さくされている人たちがいるでしょう。その人たちが地の塩、世の光である人たちだということを忘れないようにしましょう。わたしたちも小さなことで、地の塩、世の光として神さまに生かされ、用いられていくことを心に刻んでおきましょう。神さまがわたしたちを生かそうとするお心は、小さなことのうちに宿っています。あなたを愛し、生かしてくださるお方の心を、小さなところに見出す人は、神の子イエス・キリストが自分のような取るに足りない者のために、十字架を担ってくださったと感謝する人です。そのとき、あなたは大いなる小さな者として生きているのです。あなたのために十字架を負われたキリストに従って、生きていきましょう。

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