「聞くべきことを聞く」

2026年2月15日(主の変容主日)
マタイによる福音書17章1節-9節

本日は、主の変容主日です。変容という言葉はメタモルフォーというギリシア語で見た目が変わることを意味します。もちろん、見た目は内側の姿が現れることですから、イエス・キリストの内側がそのまま見えてきた出来事が山上の変容なのです。弟子たちは、この変容を見て、大いに喜びますが、「これに聞け」という天からの声によって、栄光を捨てて、ご受難の道を歩まれるイエスに聞くようにと教えられるのです。

みなさんは、聞くことと見ること。どちらが本当のことを知ることができると思いますか。今日の福音書では、聞くことが大切だと述べられているように思えます。しかし、聞くことにおいても、自分の聞きたいことしか聞かないのが人間です。見ることも自分の見たいことしか見ないのが人間です。わたしたちは見た目の良さと優しい言葉に惑わされる。そうであれば、見ることも聞くことも同じく本当のことを知るには至らないということになります。では、今日の福音書では、どうして聞くことが強調されているのでしょうか。

「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。」という言葉は、イエスさまの洗礼のときに天から聞こえた言葉と同じです。それに加えて、「これに聞け」という言葉が語られています。この「これに聞け」という言葉は、「彼に属する事柄を聞きなさい」という意味です。ここで言われていることは、イエスさまが口で語った言葉だけではなく、イエスさまが経験する事柄に聞きなさいという意味になります。口の言葉だけではなく、イエスさまに起こってくる出来事そのものから、神さまのご意志を聞きなさいということなのです。

わたしたちが経験することも、神さまの言葉、神さまのご意志があって、起こってくるということが聖書が語っていることです。起こってくる出来事には、神さまのご意志があるのだから、そのご意志を聞いて受け入れなさいということです。究極的には、イエスさまが経験される十字架の言葉を聞きなさいということになるのです。

ペトロたちは、イエスさまの栄光の姿を見て、その姿こそ自分たちが求めていたものだと思ったのでしょう。それで、幕屋を建てましょうと、イエスさまに提案しています。ところが、これからイエスさまに起こってくることは、地上においては栄光ではなく、苦難です。蔑まれること、排斥されること、迫害が起こってくる。そのようなイエスさまに属する事柄に聞きなさいと、天からの声は語ったのです。

先ほど見ましたように、わたしたち人間は、見ることも聞くことも、自分が見たいもの、聞きたいものしか求めません。そのようなわたしたちの心を、天の神さまはご存知で、イエスさまに属する事柄に聞きなさいとおっしゃったのです。人間的には見たいと思えないような事柄の中に、聞きたいと思えないような事柄の中に、神さまのご意志を聞きなさいということです。

つまり、「聞くべきことを聞きなさい。」と神さまは語っている。これは、預言者たちの言葉と同じです。預言者たちは、人々が聞きたくないような言葉を語りました。神さまのご意志なのだから、聞きたくないと思われても、語らざるを得ない。それが、預言者たちが聞いた神の言葉でした。そのような言葉を聞かされることが嫌だったので、人々は預言者たちを排斥し、迫害したのです。しかし、嫌だったということは、分かっているということです。分かっているけれど、分かりたくない。このような思いがわたしたち人間の耳や目を塞ぐのです。これが人間の罪の現実です。

今日のペトロも他の弟子たちも同じ人間の罪を宿しています。彼らも、上り行くことが良いことで、下り行くことは悪いことだという価値観を抱えていました。神さまの目から見れば、どちらも神さまのご意志に従って生じていることなのに、人間は一方を良いと考え、他方を悪いと考える。拡大志向、成長志向は、侵略を生み出します。限界を越えて、他国を侵略することが起こります。自分たちが落ちぶれたくないという思いが、他国を打ち負かして、自分たちの国を守るという名目の裏側にあるのです。このような考え方で、戦争が肯定されてきました。十戒があるにも関わらず、殺害が肯定されてきたのです。

わたしたちキリスト者であろうとも、この世の考え方に染まっていることは否定できません。誰でも、自分たちの国、自分たちの生活を守るということを優先しますので、全体が見えなくなる。全体のために、あるいは小さくされている人たちのために働くということが後回しにされる。コロナ禍のとき、炊き出しを行なっていたわたしたちルーテル教会に対して、「好きで野宿しているんだろ、あいつらは。そんなやつらを助けなくて良い。あいつらの所為で感染が広がっても良いのか。」と批判されました。また、昨年は、名古屋市の港付近で野宿している方が、中高生の襲撃を受けるという事件が起こりました。記者クラブや公安委員会に要望書を提出して、ようやく保護してもらえることになりました。それまでは、警察もこんなことを言っていたのです。「こんなところで野宿しているお前が悪い」と。これがこの世の考え方です。自分さえ良ければ良いということです。自分たちの社会に入りたければ、入れるような人間になれということです。

わたしたちキリスト者も同じように、自分さえ良ければ良いというところに生きてしまうものです。そして、全体のことや他者のことを何も知ろうとしない。見るべきものは見えているはずです。しかし、見ようとしない。聞くべきことが聞こえているはずです。しかし、聞こうとしない。このような姿に対して、天からの声は言うのです。「彼に属する事柄をあなたがたは聞きなさい。」と。聞くべきことを聞きなさい。見るべきものを見なさい。神さまが起こしておられる事柄を見て、聞きなさい。天からの声はそのように語っているのです。特に、イエスさまの下っていくお姿に神さまの言葉を聞きなさいということでしょう。

これからイエスさまと弟子たちは山を下って、地上に生きることになる。地上の支配者たちの中でイエスさまに属する事柄が起こってくる。イエスさまの十字架に向かって、彼らは山を下っていく。わたしたちは、上ることと下ることを通して、人生を生きています。上るだけが人生ではない。下るだけが人生でもない。上りと下りの繰り返しの果てに、人生の終わりがある。人生は、全体としていかに生きたかが問われるものです。上りだけが評価されるのではない。下りをいかに生きるかに、その人の真価が現れる。いつまでも、上っていた頃の栄光にすがって、過去に留まっている人がいます。上る栄光だけが自分が自慢できることだと思っている人です。また、自分は何もしていないのに、指導者はもっと良くなるような方策を考えるべきだと批判する人もいます。自分は何もしていないのに、あたかも自分ならこうするとでも言うのです。現状があるのは、その人も無関心で、無責任だったからなのに。下る生き方。下りもまた神の道として生きる生き方。イエスさまの道は、下りを神のご意志として生きる道なのです。これに従うのが、わたしたちキリスト者です。

わたしたちキリスト者は地上の栄光を求めない。地上の財貨を求めない。地上の地位を求めない。十字架を引き受けられたキリストに従う。下る道を歩み給うキリストに従う。わたしたちキリスト者が歩むべき道は、このような道です。そして、見るべき道はキリストの道です。聞くべき言葉は十字架の言葉です。使徒パウロがいうように、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」というところに生きるのが、キリスト者です。

イエス・キリストに属する事柄に聞くということは、十字架に聞くことです。十字架の言葉こそが聞くべき言葉。そこにこそ神の力がある。そこにこそ真実の道、いのちの道がある。十字架こそわたしの救い。この信仰のうちに、水曜日から始まる四旬節を過ごして参りましょう。

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