2026年2月18日(聖灰水曜日)
マタイによる福音書6章1節-6節
今日の旧約聖書の日課イザヤ書58章12節には「水の涸れない泉」という言葉があります。水が涸れないということは、神さまが供給している水であり、神さまの許に返った水は再び供給されるので、涸れることがない水なのです。神さまが与えたものは、神さまのものですから、他者のために使っても、返ってくる。それが、福音書の日課が語っていることです。使徒書の日課第二コリント6章1節にはこうあります。「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。」と。無駄にするということは、恵みを分かち合わないということです。すべてのものを所有しているとパウロは述べていますが、所有しているものは他者のために使用するものだということです。そのとき、涸れない泉を持つことになるということでもあるでしょう。
福音書の日課では、「報い」という言葉がでてきますので、誉めてもらっていただくご褒美のように感じるものです。しかし、この「報い」と訳されている言葉は「返されるべきもの」のことです。使って、失っても、返されるもの。それが「報い」という言葉に訳されているのです。さらに、「報いを受けている」という言葉の「受ける」という言葉は、「取っている」ということですので、返されるべきものをすでに取ってしまっているということです。それは「人からほめられようと」という言葉で表されています。原文で見ますと「人間たちから栄光化されるために」となっています。「栄光化」は神さまを誉め称えることに使われる言葉です。ということは、人間たちから神さまのように誉め称えられるために、施しをするという意味になります。自分が神さまのようになることを目指していることで神さまから返していただけるはずのものを自分で「取っている」わけです。さらに、「報いてくださる」という言葉も実は「返すであろう」という意味なのです。そうすると、こうなります。「返されるべきものを返すであろう」と。誰が返すのかと言えば、もちろん神さまが返すのです。「わたしがあなたに使うようにと与えたものをあなたが使ったので、あなたに返そう」と返してくださるということです。
報いというと、あとで付け加えられるもののように思えますが、実は持っていたものを使ったので、そのまま返してくださるという意味になります。何も増えてはいないのですが、減ってもいない。失われていないということです。つまり、神さまから与えられた賜物は使えば返ってくるものだということです。その賜物を使って、他の人に自分の義しさを見せて、誉め称えられたいと考える人は、神さまが与えてくださったものを使って、自分を肥え太らせているということになるのです。それが、人々の見ている前で、良いことをして、誉められることを求める姿だと、イエスは教えてくださっているのです。自分が神さまのようになることを求めることだというわけです。
神さまが与えてくださった賜物、恵みは、わたしたちが自分を肥え太らせるためではなく、他の人のために使うようにと与えてくださったものなのです。これを自分のために使うとすれば、神さまのお心を受け取っていない。自分の栄誉のために使うことで、神さまの恵み、賜物を無駄にしていることになると、使徒パウロは語っているのです。
わたしたちが涸れない泉のように生きるには、他者のために使うことが求められている。それが神さまの心だとイエスは教えてくださっています。このように生きることから外れてしまうのが、罪人としてのわたしです。祈り求めることにしても、わたしが肥え太るために祈るのか、他者を助けるために祈るのかでは、違ってきます。わたしが生きるために必要なものは神さまがご存知で、すでに与えられているのです。その中から、他者のために使うとすれば、余ったときにしようと考えるのがわたしたちです。しかし、涸れない泉は、使ってこそ、涸れないのです。汲んでこそ、さらに湧いてくるのが泉というものだと、涸れない泉の言葉は語っているのです。
わたしたちが罪深いのは、自分のために貯め込む生き方をしているときです。不測の事態に備えて、貯めておこうとする。愚かな金持ちのたとえでイエスがおっしゃっているように、たくさん貯まったのに明日命の返還要求が神さまから出されたら、貯めたものは誰のものになるのでしょうか。神さまは使うために与えてくださったのに。
わたしたちは所有すること、持っていることを求めるものですが、神さまは使用することを願って、与えてくださっているのです。与えられたものを使用する生き方を求めた人がいます。アッシジのフランチェスコという人です。所有することではなく、使用することで、すべてを所有していると考えたのがフランチェスコです。使徒パウロもこう言っています。「悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。」と。
パウロは、自らがもっと健康だったら、もっと働くことができると思って、病気を取り去ってくださいと祈ったのです。ところが、その病気という弱さの中で、神の可能とする力は完成しているのだというキリストの言葉を聞きました。だから、彼は弱さの中で神の可能とする力を生きることを喜んだのです。弱くても、働くことができると、貧しくても富んでいることができると、他者のために与えられた賜物を使ったのです。それが、エルサレム教会の貧しい人たちの援助金集めに発展しました。
パウロは、自らの力を増やせば、他者を助けることができると思っていたのです。ところが、弱くても、貧しくても、他者のために使う人は、すべてのものを所有していると知ったのです。使わないで、貯めているだけでは、与えられた賜物が腐っていくだけです。使うことで、泉として湧いてくる。泉が流れていく。神さまが供給してくださるからです。このように生きる根源には、自らが貧しく、死にかかっているようであるとしても、神さまに生かされ、与えられているものがあることに目を開かれた信仰があるのです。
この聖灰水曜日に、わたしたちが覚えることは、塵から造られたのだから、塵に返るわたしです。塵に過ぎないわたしが生かされていること。多くものを与えられて、生かされていることを覚えます。塵に過ぎないのに、生かされている。何のために生かされているのか。神さまの働きに仕えるために、生かされている。わたしが肥え太るために生かされているのではないのです。塵に過ぎないわたしが、体を与えられて、その体を使って誰かを助けることができる。塵に過ぎないわたしが、頭を与えられて、頭を使って、誰かを助けることができる。口を与えられて、誰かを励ますことができる。手を与えられて、誰かの手伝いをすることができる。塵に過ぎないわたしがこのように生きることができるように、神さまはすべてのものを与えてくださっている。そのようなわたしが肥え太ることを求めて生きるならば、賜物を与えてくださった神さまは悲しいことでしょう。わたしの魂の哀れさを嘆くことでしょう。
聖灰水曜日から始まる四旬節は、キリストの十字架を心に刻む期節です。わたしのために、ご自身を十字架の死に引き渡したイエス・キリストは、ご自身をわたしの救いのために使ってくださったのです。わたしたち神に背いて生きている人間の救いのために、ご自分のいのちを使ってくださったお方。イエス・キリストのいのちを与えられたと信じるわたしたちが、自分のいのちを他者のために使うならば、キリストのいのちは溢れて、涸れることのない泉として、わたしたちを通して流れていくのです。
使えば使うだけ、溢れてくる涸れない泉。それが神さまの賜物であり、イエス・キリストの十字架のいのちなのです。このいのちを生きるために、召された一人ひとりであることを今日覚えておきましょう。四旬節を過ごすわたしたちが、与えられた賜物を使って、他者を生かすことへと向かって行くことができますように、塵であるわたしを今日覚えて歩み出しましょう。

