「わたしであること」
マタイによる福音書4章1節-11節
誰かに認めてもらうために、その人の言うことを聞くということがあります。認めてもらう必要が無ければ、言うことを聞かなくても良いわけです。認めてもらわなくても、わたしはわたしです。わたしはわたしであると生きていれば、何も心配する必要はありません。しかし、人間という存在は、誰かに認めて欲しいものです。認めてもらえると、自分の居場所があると思え、自分は生きていて良いのだと思えるからです。
今日のイエスと悪魔の対決は、神に信頼して生きるか、人間的な行動で生きるかという対決です。神の子であることを悪魔が認めるために、イエスはいろいろと悪魔から要求されています。イエスが神の子であることを誰かに認めてもらう必要があるのでしょうか。わたしが父の子であることを証明しなければならないという場合には、DNA検査をするということもあるかも知れませんが、通常はそのような検査をする必要はありません。父と子が目の前にいて、父が「わたしの子」と言えば、それで済むのです。ところが、神が「わたしの子」と言っているのに、悪魔は証明しろと迫っているわけです。神が見えないからでしょうか。悪魔は神を信じていないからでしょうか。そうではありません。悪魔は、自分に従わせたいだけなのです。今日の誘惑の最後で、悪魔は本音を言わざるを得なくなっています。「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と。
悪魔にひれ伏すということは、「全面的に降伏して」という意味です。「拝む」ということは「礼拝する」という意味です。全面降伏して、わたしを礼拝するならば、全世界を与えると悪魔は言ったわけです。つまり、悪魔の支配の下に入ることを求めているのです。ここでは「神の子なら」とは悪魔は言っていません。つまり、「神の子かどうか」はもはや関係ないのです。とにかく、自分に全面降伏して、礼拝して欲しいのです。これが、最終的に悪魔が求めていることです。そして、わたしたち人間が、誰かに認めてもらいたいと思うことも、同じ次元に生きていることなのです。自分が認められるならば、どんなことでもするということ、神さえも捨てるということです。自分にしか関心がない。そこに悪魔はつけ込んで来るのです。
わたしたち人間は、自分にしか関心がない。これは、当たり前の罪人の姿です。罪人という視点から見れば、何もおかしくないのです。人間とはそういうものだと悪魔は知っているのです。だから、イエスも同じように自分の手の内に落ちるだろうと思って、イエスを誘惑しています。その誘惑に対して、イエスはどのように対峙したのでしょうか。
イエスは、神の言葉を伝えるだけで、自分の気持ちや意志については何も語っていません。どうしてなのでしょうか。「したい」とも、「したくない」とも語っていないということは、イエスは意志を捨てているとも言えます。そうであれば、悪魔は、人間の意志に働きかけるということでしょう。
わたしが持つわたしの意志に悪魔は誘惑を仕掛ける。だとすれば、イエスが言う「自分を捨て、自分の十字架を取って、わたしに従いなさい。」という言葉の意味も分かります。それでも、わたしたち人間は意志を持つものです。意志がなければ、わたしを生きていくことができないと思うものです。わたしたちが持つ意志、これを捨ててしまうと、わたしが無くなると思ってしまいます。これが通常の人間の思いです。しかし、イエスは意志を捨てて、神の子として生きたのです。
神の子であることは、イエスの意志でなったわけではありません。神がおっしゃったから神の子であるのです。わたしたち人間もまた、わたしであることは神が造ってくださったからわたしなのです。この現実は神の言葉による現実なのです。この現実を生きるには誰かの承認は必要ありません。誰かにわたしであることを認めてもらう必要はないのです。ただ、わたしが神さまに造られたことを信じて、揺らぐことなく生きていくだけで良いのです。
神の言葉によってわたしを生きる人には、悪魔は手出しできない。人間の言葉に揺さぶられることがない人には手出しできない。それが悪魔の限界なのです。それなのに、わたしを礼拝しなさいと求める。悪魔というのは哀れですね。
わたしたちの周りにもこのような人がいますね。自分に従うように求める人は、相手に利益を与えるという交換条件を提示します。しかし、そんなこと必要ないという人には、交換条件は何の効果も発揮しません。何とかして、自分に跪かせようと躍起になる人がいますが、今日の悪魔と同じように哀れですよね。そんなことに、一生懸命になること自体が愚かなことなのに、どうしても自分の思うように人を動かしたい。そのような人は、悪魔に動かされているのかも知れませんね。
神の言葉だけが悪魔を寄せ付けないと言われても、わたしたちはそれでは安心できない、と思ってしまいます。自分が誘惑されると思うからでしょう。そして、誘惑されたなら、わたしは神さまから見捨てられるとも思うでしょうね。しかし、神さまは見捨てないのです。何故なら、あなたが受けた洗礼によって、あなたは神の子として生きるようにされたからです。神の子と言っても、養子なのですが、神の子です。神さまがあなたを神の子としてくださった。イエスと共に死ぬ洗礼を通して、イエスと共に起こされたあなたは、神の子なのです。誰かに証明してもらう必要はない。洗礼式と堅信式で宣言されるように「あなたは聖霊による証印を受けている」のですから、神さまが証明してくださっています。それだけで、あなたは神の子なのです。洗礼の恵みは消えないのです。
ただし、あなたが神の言葉を捨てて、人間の言葉や人間の価値観に流されていくならば、自分から神を捨てています。そのようになったときにも、神の言葉だけは語られ続けるのです。神の許にあなたを留めるのは神の言葉だけです。だからこそ、神さまは礼拝を設定してくださった。神の許に立ち帰る場として礼拝を設定してくださった。神の心に立ち帰るようにと、礼拝に招いてくださった。
今日の福音においても、あなたが悪魔に誘惑されることをご存知で、イエスは悪魔の誘惑を受けられた。だからこそ、聖霊によって、イエスは悪魔の誘惑を受けたと記されているのです。イエスが誘惑を受けることで、悪魔が手出しできない在り方を教えてくださった。イエスの十字架もまた、悪魔に操られた人たちが起こしたことでしょう。その出来事が記されているのも、イエスの教え。悪魔がいかに働くのかを教えてくださるイエスの教えは、イエスご自身が悪魔の誘惑を受けることを通して、語られるのです。
わたしたちも自分の経験を通して、真実を知るものです。経験しないで、自分の浅い知恵で考えているだけでは、真実を知ることはできないのです。マルティン・ルターはこのようなことを言っています。「人は経験し積み重ねなければ何も学べないゆえ、わたしの試練によってわたしは学んだのである。実践がなければ学べないからである。熱狂派や分離派たちはこれを教える敵、悪魔を持っていないからである」(卓上語録70)と。ルターは悪魔が真実、真理を教えてくれるのだと言っています。今日の荒野の誘惑においても、イエスさまが悪魔に誘惑されたからこそ、わたしたちは真理を知ることができるのです。悪魔がどのように働くのかを知ることができるのです。まさに、悪魔は真理を教えてくれるのです。
キリストの十字架を覚える四旬節を生きるわたしたちが神の言葉に留まるようにと、立つべきところをイエスが示してくださった。この恵み深い神の愛、イエスの愛のうちに、四旬節を過ごして参りましょう。洗礼を受け、聖霊の証印を押されたあなたは神の子。誰が何と言おうと神の子。この信仰を与えられていることを心に刻み、キリストと共に神のことばのうちに、留まり続けることができますように、神の助けを祈り求めましょう。

