「神から神へ生きる」

2026年3月1日(四旬節第2主日)
ヨハネによる福音書3章1節-17節

人間というのは、自分が立っている立場からこの世界を見ています。自分が見ている世界がすべてだと思い込んでいます。他の人が見ている世界も自分が見ている世界と同じだと思っているのです。しかし、他の人とわたしとは立っているところが違いますから、見ている世界も違うのです。お互いに、相手が同じものを見ていると思っているものですから、「どうして分からないのだろうか」と思うことにもなります。相手に分からせようとして、争いが生まれます。争いは、自分の立場に引き込もうとして生まれます。分からない相手を、説得できないとしたら、相手を力でねじ伏せるということも行うのが人間です。しかし、立っているところが違うならば、分かり合えるはずはありません。今日のニコデモとイエスとの対話は、この立場の違いによって、噛み合わない対話となっています。

今日の福音書でイエスはこうおっしゃっています。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。」と。この風という言葉はギリシア語でプニューマという言葉ですが、「霊」という意味でもあります。つまり、この世の自然の中で吹いている「風」と神さまの世界に関わる「霊」とは同じ言葉プニューマなのです。ということは、この世の自然の中の動きも神さまの世界の中の動きも、一つであることが述べられていると言えます。この世と神の世界は一つの言葉であることが述べられているわけです。わたしたちは、神の世界は神の世界、人間の世界は人間の世界だと思っているものです。しかし、この世界を神さまが造られたのであれば、人間の世界だと思っている領域も神さまの世界だということになります。これが、ヨハネ福音書でイエスが述べている真実なのです。

その真実は「わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししている」と言われているように、イエスご自身とイエスを信じる者たちが「知っている」ことであり「見ている」ことなのです。しかし、人間の世界だけを見ている人たちは、イエスと信じる者たちが経験していることを知らないのです。それで、ニコデモとイエスとの話が噛み合わないことになっているわけです。

この噛み合わない対話を克服することはできない。人間の側から克服しようとしてもできない。むしろ、わたしたち人間が神さまのお働きに身を委ねることでしか、克服は起こらないのです。それで、ニコデモはイエスの前からいつの間にか消えていくのです。そして、再び現れるのは、7章です。ファリサイ派との議論の際にニコデモはイエスの弁護をしています。さらに、イエスの十字架の死の後、墓に葬られるときに、イエスの体を引き取るのはアリマタヤのヨセフとニコデモです。ニコデモは消えていくのですが、イエスに従うことになったのでしょう。人間的なニコデモが消えて、神のものとして生きるニコデモが最終的に現れる。ニコデモは、人間の世界においても、神の世界においても、一人のニコデモを生きているのです。

一人のニコデモを生きるということは、風と霊とが一つであること、人間が聞く風の音と神から吹く霊の声とが一つであることと同じことなのです。風は、神さまが吹かせるように吹いていく。それは、風自身が吹いているようでありながら、神さまの意志によって吹かれている風なのです。霊もまた同じ。それで、イエスはこうおっしゃっています。「霊から生まれた者も皆そのとおりである。」と。ということは、霊から生まれるという出来事そのものは、神さまのお働きです。一方で、その人自身は自然的には人間から生まれているように思える。しかし、神さまのお働きによって生まれているのです。人間から生まれているように思える人間的な思い込みを捨てることがなければ、神さまの世界を見ることができないのです。

もちろん、わたしたち人間は、誰であろうと自分が知っている世界、見ている世界がすべてだと思うものです。それは仕方ないことです。わたしたちの認識は、わたしの体の器官によって認識されています。体の器官が触れ、見ることを脳が判断しているわけです。そのような体の器官を越えた認識になると、当たり前だと思っている感覚を捨てなければなりません。この捨てる作業が、自分の感覚を「疑う」ことです。わたしは自分の感覚で騙されているかも知れないと疑うことによって、感覚を捨てることになります。もちろん、感覚によって認識する事柄は、わたしの感覚が認識しているのですから、その感覚を超えた認識にはなりません。わたしたちの認識は感覚に縛られているのです。地上的、人間的感覚に縛り付けられて、天上的、霊的な事柄を認識することができないということです。これがニコデモとイエスとの対話が成立しない理由です。

ニコデモは、ここではいつの間にか消えていくのですが、最後に現れるということから考えてみると、消えていくことによって、神の世界に現されたとも言えます。ニコデモは、自分の力では自分の感覚を捨てることができなかった。どこまでも、地上の論理でイエスに疑問を呈しています。そして、消えていくのですが、彼が自分から消えたわけではありません。イエスの言葉ロゴスによって消えざるを得ないようにされたのです。そのような意味では、イエスのロゴスの働きを受けたニコデモだと言えるでしょう。

ニコデモは、受け取ろうとしたわけでもなく、理解しようとしたわけでもなく、イエスの言葉ロゴスの前に消えざるを得ないようにされただけでしょう。それが、イエスの言葉ロゴスの働きだった。そして、消えたニコデモは、途中で少しだけ顔を出し、イエスの死の際に復活しているのです。こう考えてみると、わたしたちが自らの感覚を捨てることができなくても、イエスの言葉ロゴスがわたしに語り掛けることによって、捨てさせられるということです。そのようなイエスの言葉ロゴスの働きに与かることが救いなのです。救われて、神の働きの世界に入れられるのです。

この後の4章では、ニコデモと同じようなサマリアの女との噛み合わない対話が起こります。こちらにおいては、また別の視点が開かれ、示されていますが、これについては次週見て参りましょう。

わたしたちが立っているところが神の世界なのか、人間の世界なのかという立場の違いを判断して、立つ場所をわたしが決めるということではありません。あくまで、イエスの言葉ロゴスがわたしに働きかけることを受け入れるか否かというだけです。イエスの言葉ロゴスは、わたしたち人間が立っている土台を崩して、真実の土台に立たせてくださるのです。「わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししている」というイエスの世界、イエスを信じる者たちの世界に入れられること。それが救いです。

この救いに入れられるために、わたしたち人間にできることは何もありません。ただ、語られたイエスの言葉ロゴスを受け入れるだけです。分からないならば、分からないと受け入れる。わたしには分からないと受け入れることによって、イエスの世界に入る入口が開くとも言えます。その入口を通ることで、ニコデモは消えていったのです。そして、途中で顔を出すのですが、最終的に十字架の向こう側に出てくることになった。長いトンネルを通って、出てきた先でニコデモが見ている世界は、地上的な世界ではなく、霊的な世界です。風と霊が一つである世界です。このトンネルを通って出て行くことが、霊から生まれることでしょう。風も霊もそれぞれに神の言葉に従って吹いている世界。その世界へと生まれるのは霊から生まれることです。これがニコデモを通して示されている神のお働きなのです。

この四旬節の間、わたしたちはニコデモと一緒に、受難という十字架への長いトンネルを通って、向こう側に生まれるのです。霊から生まれるのです。十字架という出口を通って、神の世界に生まれるのです。イエスが担ってくださった十字架こそが、わたしたちが生まれ出るための産道なのかも知れません。この神の憐れみの産道を通って、新しい世界に生み出されたわたしであり、あなたであることを共に喜び祝うことができますように、四旬節の歩みに心を向けて参りましょう。

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