「今を見る信仰」

2026年3月15日(四旬節第4主日)
ヨハネによる福音書9章1節-41節

ヨハネによる福音書は、見ることと聞くことの本質を語っています。今日の旧約聖書のサムエル記上16章で神ヤーウェがサムエルに言うように、見るということは、心によって見ることです。さらに、福音書では、見るということが如何なることであるかが語られています。生まれながらの盲人が盲人であるのは、罪の結果なのかという問いが弟子たちから出されたことが切っ掛けとなって、生まれながらの盲人の目が開かれるというイエスのしるしが行われます。このしるしが指し示している本体は、神さまの働きです。神さまのお働きによってさまざまな出来事が起こっている。盲人の内で、その神さまのお働きが明らかになる。このために、神さまはイエスと盲人とを出会わせたと語られているのです。

わたしたち一人ひとりは生かされている現実の中でイエスに出会うことが起こった。それは、わたしのうちで神さまのお働きが明らかになるためだったのです。わたしがイエスに出会い、イエスの言葉を聞き、イエスに信頼して生きるようにされていく。これはすべて神さまのお働きです。わたしが何かしたからではなく、神さまがわたしのうちで働いてくださったから、そうなっているのです。この神さまのお働きを受け取る。これが信仰です。この信仰さえも、神さまのお働きですから、わたしたち人間は何もしていないのです。それなのに、信じる者にされている。この現実を認めるのが信仰です。それは「今を見る信仰」なのです。

わたしたちはおおむね、過去によって見るものです。その人の過去がどうであったかによって、今見ている人を判断する。つまり、今見ている人を見ていないのです。でも、知らない人であれば、判断の仕様がない。それで、誰かに聞きます。「あの人は、どんな人」と。そして、答えた人の過去の経験を通しての判断によって、知らない人を知ったと思い込みます。自分ではない他の人間の判断に従うということだけではなく、わたしたちの判断は、過去の知識によっているということなのです。今を見ないで、過去を見る。それが、わたしたちが「見ている」と思っていることなのです。判断をする前に、その人自身を自分で見るならば、違う判断になるかも知れません。

見ていないのに見ていると思い込む。現在のその人をまっすぐに見ることができないとすれば、その人を見ていないということです。イエスが「今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」とおっしゃっているのは、そういう意味です。罪が残っているということは、まっすぐに見ることができないということです。罪というものがわたしたちの目を曇らせて、今を見ることができないようにしてしまう。それでは、神さまが出会わせてくださった相手を曇りなく見ることができない。そうであれば、見えていない方が良く見ることができるでしょう、とイエスはおっしゃるのです。

見えているということは、知っているということです。目の前にいる人は見えています。もちろん、過去のその人は知らないでしょう。しかし、目の前のその人は見えている。そこから始めれば良いのです。また、以前から知っている人は、その人との過去のあれこれが思い出されることもあります。「あのとき、こんなことをされた。」、「あんなことを言われた。」と思い出すものです。言われたこと、されたこと、それらは過去であり、今ではない。それでも、今と過去は違うとは言えません。人は変わることはないからです。もし、変わるとすれば、その人は一貫性のない人でしょう。相手によって自分を変える人であっても、「一貫性のない人」として変わってはいないのです。それでも、目の前にいる人がいかなる人かを知るためには、今を見るしかない。なぜなら、変わらないとしても、わたしが見ていなかったその人が見えてくるかも知れないからです。わたしたちは他者のすべてを知っているわけではないのです。

生まれながらに盲人であるということを聞いて、どうして今目が見えるのかと問い詰めて、何がしたいのか。イエスが安息日に人を癒やしたという安息日違反をしていることを訴えたいのです。それで、過去に盲人であった人が見えるようになった経緯を問い詰める。これは訴えるための口実を探しているのです。盲人だった人は、それが分からないのですが、何度も聞かれて、「答えたのに、聞いてくれませんでした」と答えています。聞こえているのに聞かない。これが問い詰めている人たちの真実の姿、罪の姿です。

自分が訴える材料にならないならば、聞かない。目的に合わないものは聞かない。そして、見ない。目的を持っているから、目的に合う材料が欲しい。それだけが盲人に何度も聞く理由なのです。このような人たちに何を言っても、聞く耳がないのです。彼らは、イエスは罪人だという答えを持っていて、その答えと合う材料だけが、彼らが聞きたいことだからです。聞きたいことしか聞かない。これが、罪が残っていると言われていることなのです。

見えるようになった盲人が、後でイエスに出会って、対話するうちに、「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」と言っています。つまり、知らないその方を知りたいと言っているのです。なぜなら、その方を信じることを通して知ることに至るからです。信じるとは、その人との関係に自分を投げ入れることです。投げ入れることによって、相手を知ることができるのです。

はじめての人でも、まずは信頼して、一緒に何かに取り組んでいく中で、その人が分かってくるものです。分かってきたとき、信頼できる人だと思うこともあります。また、信頼できない人だと分かることもあります。それが、人を知ることです。今目の前のその人を見ることです。そのとき、その人が立っているところがどこにあるかが分かるものです。信頼して、一緒にやることがなければ、その人がどこに立っているのかは分かりません。だから、盲人だった人は、目の前に見えているイエスが言う「その人」を信じて、知りたいと答えているのです。見えるようになった盲人は、目で見ることではなく、魂で見ること、信じることを求めた。これが物事をまっすぐに見ることなのです。

その盲人だった人に、イエスはこう言っています。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」と。今見ている人をそのままに受け入れなさいと、イエスはおっしゃったのです。これが「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。」という言葉の意味です。つまり、目の前にいるイエスが「裁き」の基準として働くということです。どういうことでしょうか。

イエスをそのままに見るか、自分の価値観によってイエスを見るかによって、人は分けられるということです。「裁き」という言葉は正しく分けることを意味しています。イエスに出会って、そのままにイエスの中に入ってみる人は、イエスを知るでしょう。しかし、イエスと出会って、自分が持っている価値観に合うかどうかでイエスを判断する人は、イエスを知ることができないのです。なぜなら、その人はイエスそのものを見ていないし、聞いていないからです。こうして、イエスというお方は、「裁き」として生きておられる。だとすれば、イエスを受け入れるか否かによって、自分で自分を裁いていることになるのです。このようになってしまうのが、自分という人間の価値観によって、イエスを見ることです。その場合、見えているのに見ていないことになります。「見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」とイエスがおっしゃるのは、このようなことです。

見えない者とは盲人ということですが、盲人は自分が見えないことを自覚しているわけです。しかし、見える者は自分が見えていると思い込んでいるのです。この見えると思い込んでいるものを捨てて、自分が正しく見ていないと自分の盲目を受け入れるならば、見えるようになるのです。それこそが、真実に見ることだと言えます。わたしたちが神さまのお働きを見ることができるために、イエスは神さまによって派遣されたのです。イエスというお方を受け入れ、そのお方の中に自分を投げ入れる人は、見えるようになって、イエスに従って行くでしょう。そのとき、世界は違うように見えてきます。イエスが見ておられる世界を見ることができるようにされるのです。イエスを見ているあなたは救われています。

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