「小さき者たちの王」

2026年3月29日(枝の主日)
マタイによる福音書21章1節-11節

枝の主日を迎えました。イエスさまがエルサレムに入城されます。それは、神の都であるエルサレムにおいて王として神の選びの民イスラエルに仕えるためです。その働きは、預言者のように、人々を神に立ち帰らせることです。今日の日課に続く聖書の箇所で、神殿は「祈りの家」だとおっしゃって、神殿の境内で商売をしていた人たちを追い出しています。そのお姿は、神殿の境内で預言者として働いておられる姿です。

みなさんは、預言者と王さまはどのような関係にあるのかご存知でしょうか。イスラエルの始まりにおいては、真実の王は神ヤーウェでした。そのヤーウェの意志に従う政治を行うようにと、預言者は王に助言したのです。王は預言者の言葉によって、神の意志に従う政治を行うことになっていたのです。しかし、人間的な政治を行う王が多かった。そして、バビロン捕囚によって国を失ってしまった。神の意志に従うことができなかった民が神に従う民となるように神さまは、イエスさまをこの世にお送りくださった。

イエスさまは弟子たちを派遣したとき、こう言っています。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。」と。「見つかる」ということは発見するという意味です。向こうの村に行けば、神さまが備えてくださった子ろばをあなたがたは発見するだろうとおっしゃったのです。

神さまが備えたものには、神さまのご意志がある。だから、弟子たちは神さまのご意志に従って、子ろばを発見するのです。その子ろばに乗るイエスさまも、神のご意志に従って、子ろばに乗る。イエスさまのエルサレム入城には神のご意志が働いている。それゆえに、この後の箇所では、イエスさまは神の意志を受け取る「祈りの家」を回復するために来たとおっしゃる。一人ひとりの真実な祈りが回復するためでした。建前の祈りではなく、心からの祈りの回復。それは、人々の心がまっすぐに神さまに向かうようにすることです。この神の意志に従うイエスさまのお姿は、十字架に行き着きます。エルサレムに王として入城して、エルサレムで十字架刑に処される。これが、イエスさまが生きるべく備えられた道でした。この道を避けて通ることはできなかった。

群衆はイエスさまのお姿を見て歌っているように思えますが、それはエルサレム詣の習慣だったことでしょう。「ホサナ」というヘブライ語は「ホシュアーナー」という言葉です。それは「わたしたちを救ってください」という叫びです。この叫びが、エルサレムに入城されるイエスさまに向かって叫ばれた。「ヤーウェは救い」という名前を持つイエスさまに叫ばれた。ということは、イエスさまご自身に「わたしたちを救ってください」と叫んでいることになるわけです。その声を聞いて、イエスさまは神殿が神に立ち帰るための「祈りの家」であるように働かれた。神殿だけではなく、人々が神に立ち帰るために働かれた。さらには、イスラエルの民が神に立ち帰るようにと十字架を担われた。

しかし、十字架の声を聞く人がいるのでしょうか。「ホサナ」は、群衆の心の叫びだったのでしょうか。祭の慣習として叫んだだけだったのではないでしょうか。それでも、本来の神さまの「立ち帰れ」という心は失われません。聞く人がいなくても、語り続けている神の言葉。失われない神の言葉。十字架が示しているのは、語り続けておられる神の言葉なのです。讃美する群衆は、最後にこう歌っています。「いと高きところにホサナ。」と。「神さまのいますいと高きところにおいて、わたしたちをお救いください。」という意味です。

「いと高きところ」に神さまはおられて、エルサレム神殿でのわたしたちの祈りを聞いていると群衆は思っていました。つまり、神殿がなければ神さまは祈りを聞いてくださらないと思っていたのです。ところが、神さまが王としてご支配なさる領域は、この世界すべてです。いと高きところが天であるとしても、神さまのご支配は地上にも及んでいます。ですから、神さまが支配しておられる世界すべてにおいて、神さまはわたしたちの祈りを聞いておられる。だから、地上においても、神さまのご支配が行き渡っているはず。それなのに、現実はそうなっていないと誰もが思っていました。

当時のユダヤはローマ帝国の支配下にあって、この世の王であるカエサルの支配を受けていました。その世界も、王も、神さまのご支配の中にあるということが、預言者が語っていることです。しかし、そうなっていない現実を前に、神さまが支配する世界すべてに神さまのご意志が行き渡るために来られる小さき者たちの王を喜び迎えなさいとザカリヤは預言した。しかし、群衆は自分たちが神さまのご意志に従っているかどうかを考えてはいません。ローマ帝国が神さまのご意志に従うようにと祈っていたことでしょう。イエスさまが願われた「祈りの家」は、一人ひとりの信仰のうちにある「祈りの家」の回復だった。神殿で商売が行われなければ良いということではないのです。一人ひとりの信仰が問題だったのです。その神さまのご意志がなるようにとのイエスさまの願いが、十字架に行き着く。十字架を起こしたのは、自分たちの支配する世界、神殿を守ろうとするユダヤ教指導者たちでした。そのイエスさまの十字架において、いと高きところがどこにあるのかが示されています。いと高きところは、わたしたちの世界において、もっとも低いところ、十字架の上にあるのです。指導者たちの思惑によって低められたイエスさまの十字架。そこにいと高きところである天がある。

小さき者たちの王、それが真実の王です。権力を振りかざして、好き勝手に自分の利益を求めるのが王ではないのです。民の中のもっとも低い人たち、小さき者たちのために心を尽くすのが王なのです。これが古代イスラエルの王に求められた生き方でした。そして、預言者たちもそのように王に助言したのです。しかし、地上の世界では、自分を支援してくれる人の言いなりになる王が、小さき者たちを虐げている。現在のイスラエルとアメリカとイランによって起こっている攻撃の繰り返しで、被害を受けているのは小さき人々。苦しむのは弱い人たち。

本日の第1日課イザヤ書50章の言葉には「主の僕の忍耐」という小見出しがついています。主の僕は特に53章にある「苦難の僕」の姿で、人々の罪を負う僕と歌われています。それがイエスさまだと、わたしたちキリスト教会は理解しています。十字架に架けられた受難のキリストがわたしたちを救うのです。その救いはどのような救いなのでしょうか。力による救いではないことは確かです。無力さによる救いとでも言える救いです。この無力さは、本日の第2日課であるフィリピの信徒への手紙の「キリスト讃歌」に述べられている通りです。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」という無力さです。小さき人間と同じになってくださったイエスさま。無力になる十字架を通して、救いを実現してくださったイエスさま。十字架の死に至るまでの神への従順が示しているのは、無力であることの力です。

だとすれば、この姿に倣うことがわたしたちの救いなのでしょうか。いえ、わたしたち人間はイエスさまに倣うことなどできないのです。皆、自分が可愛い。自分を守りたい。自分は損をしたくない。死にたくない。イエスさまが担ってくださったのは、わたしたちが担うことができなかった無力さです。小さき者たちの無力さ、神の意志に信頼することができない権力者たちに翻弄される無力さをイエスさまは生きてくださった。十字架によって、無力さを真実に生きてくださった。このお方がわたしたちの救い主です。

無力になることができない者を救うのは、無力になってくださったイエス・キリストです。わたしはイエスさまと同じように死ぬことができない。そのわたしのためにご自身のすべてをかけて、神に従い通してくださったお方がわたしの王。小さな者たち、無力であるにも関わらず、何とか力を獲得しようと躍起になるわたしを救う真実の王。このお方が、わたしを支配してくださるイエス・キリストです。

この王の勝利を祝う復活祭は、王の死を確認する聖金曜日を通ってこそ、わたしのものとなるのです。この聖なる週、イエスさまの十字架を心に刻み、わたしの無力さを生きてくださった小さき者たちの王、イエスさまと共に過ごして参りましょう。

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