「平和のための傷跡」

2026年4月12(復活節第2主日)
ヨハネによる福音書20章19節-31節

イエスさまが弟子たちに現れる出来事は、このヨハネによる福音書では二度記されています。その二度の現れに共通しているのは「手と脇腹を示す」というイエスさまの行為です。さらに二度に渡って「平和、あなたがたに」とおっしゃっています。イエスさまは、弟子たちに平和をもたらすために現れてくださったのです。

平和をもたらすにあたって、ご自身の傷跡を示された。ということは、イエスさまの傷跡が平和をもたらすことを示したと理解することができます。復活とは、死んだ傷跡を持っているお方が生きている、その傷跡が平和であることを示すこと。これが、ヨハネによる福音書が伝えていることです。

「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」とおっしゃっているのは、傷跡の恵みを刻みつけるためでしょう。あなたがたはこの傷跡によって赦されているのだと。そして、最後に記されているように、傷跡を見た弟子たちと同じように「あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」ということが起こるのです。イエスさまの手と脇腹の傷跡が平和、つまり神さまとの和解のしるしであり、信仰を起こす傷跡なのです。

使徒パウロは聖餐の際にわたしたちは「主の死を告げ知らせる」と言っています。また、「十字架の言葉は」、「救われるわたしたちには神の力です」とも言っています。主の死を告げる十字架の言葉に基づいて、わたしたちは信仰を起こされて聖餐に与る。主が死ななければ、信仰は起こされない。イエスさまの手と脇腹の傷跡がわたしに信仰を起こす。その傷跡が、わたしのための傷跡であり、わたしのための主の死であることを受け止めることが信仰なのです。だからこそ、イエスさまはトマスのために二度目に現れてくださった。トマスが、主の死を自分のための死であり、自分のための傷跡であることを受け取るために、トマスのいるところに現れてくださった。この受け取る信仰においては「見ないで信じる」ということが起こるのだと、イエスさまは教えてくださっています。

「見ないで信じる」とは、復活のイエスさまを見なくても自分のための十字架の傷跡があるのだと信じることです。わたしたち一人ひとりは、見て信じたのではありません。イエスさまを見た人はいないでしょう。しかし、信じる者にされている。それは、イエスさまの十字架の傷跡がわたしのための傷跡であることを受け取った人に起こされる信仰なのです。歴史的に、イエスさまが死んだことは理解することができるでしょう。しかし、わたしのためにこの傷を負ってくださったと信じる信仰は、イエスさまの姿を見ても起こらない。むしろ、傷を見ることによって起こる。しかし、最初に復活の主を見せられた弟子たちは「わたしたちは主を見た」という自負だけを持ってしまった。トマス以外の弟子たちは、トマスに向かってそう言って自慢しています。その言葉を聞いて、トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と答えています。それは、死んだイエスさまが生きていると確認したいということです。ここで、弟子たちの間に、分裂と争いが生じたと言えます。その分裂と争いのただ中に、イエスさまは再び現れて、傷跡を見せてくださった。トマスだけではなく、他の弟子たちも傷跡を同じように見せられた。他の弟子たちは、もはや「俺たちは二度見た」とは言わない。いえ、言えない。

最初のイエスさまの復活顕現においても傷跡が示されているにも関わらず、他の弟子たちはただイエスさまを見たということだけに留まり、トマスに自慢しただけでした。そのとき、最初にイエスさまがおっしゃった「平和、あなたがたに」という言葉から弟子たちはこぼれ落ちてしまいました。だからこそ、二度目に現れたときにも、イエスさまは十一人の弟子たちすべてに向かって「平和、あなたがたに」と再びおっしゃったのです。彼らの中に平和がないことをご存知で、二度目に現れて、同じように平和を告げられた。

その平和の土台は、イエスさまの傷跡だったのです。だからこそ、トマスにも他の弟子たちにも傷跡が見えるように、再度お示しになった。もちろん、その平和を与えるために、わざわざ二度に渡って現れてくださったイエスさまのお心は、この傷跡に記されているのです。この傷跡の意味を受け取ることができなかった十人の弟子たちだった。そのために、再び現れてくださったイエスさま。トマスだけではなく、すべての弟子たちのために現れてくださった。だからこそ、最後にヨハネ福音書は述べているのです。「信じてイエスの名により命を受けるためである」と。

信仰を起こすイエスさまの傷跡。この傷跡に支えられて、信じる者にされる人は、「命を受ける」と言われています。原文では「命をあなたがたが持っている」となっています。また「イエスの名により」という言葉は「イエスの名の内で」です。イエスの名の内に包まれて、命を持つ。この「命を持つ」ことは、単に生きているということではなくて、命を与えられて持っているということです。さらに、命は与えられるものだということです。

わたしたちが命を持っているのは、与えられているから持っているのです。与えられていなければ持ってはいない。わたしたちは、自分の命を与えられた命として考えているでしょうか。命を、自分が生み出してもいないのに、自分のものだと考えているのではないでしょうか。しかも、与えられた命は、平和を生きるための命です。争いを生きるための命ではありません。争いによって、命を持つことはないのです。争いは命を失うのです。この争いを起こさない命を持っているために、イエスさまはご自身の傷跡を弟子たちに示した。わたしが受けた傷によって、あなたがたに平和が与えられていると、イエスさまは傷跡を示された。この傷跡にこそ、平和がある。十字架にこそ平和がある。

イエスさまが勝利しているこの世は、他者に傷を負わせ、殺害し、自分の思うように世界を動かそうとする支配者たちに翻弄されている。平和のために殺害するという矛盾を、正当なことだと主張する世界。この世はそのような世界です。しかし、イエスさまは、ご自身の手と脇腹に傷を受けることによって、世界を平和へと導くお方です。このお方こそ、真実の王であり、真実の支配者なのです。平和のための戦争ではなく、平和のための傷を負うお方。この方こそ、真実の支配者であり、この世に勝利するのも、この傷跡なのです。この勝利を明らかに示すのが、平和のための傷跡です。

わたしたちの間にある争いの根源には、邪魔者を排除しようとする心があります。イエスさまの十字架の傷には、邪魔者として排除されることを受け入れる心があります。その背後には、神さまがこの世界を赦しておられるという信仰があるのです。わたしたちの世界は、神さまの赦しの下に置かれている。この赦しを受け取った存在は、赦しのために傷を負ってくださった神さまの痛みを知る。その痛みが、わたしのためであったことを知る。わたしの心が神さまの痛みを受け取る。そのとき、わたしたちは神さまの心と一つとされるのです。

聖書は、この神さまの赦しを宣べ伝えています。十字架のイエス・キリストは神さまの赦しの器としてご自身の身体に傷を負ってくださった。赦されたわたしたちが平和へと向かって歩み出すように負ってくださった。この尊い傷跡をわたしたちの心に刻みつけましょう。あなたのいのちは、イエスさまの傷跡に支えられている。イエスさまの傷跡があなたのいのち。あなたが新たないのちを受け取って、新たな世界へと開かれていくために、イエスさまは今日現れてくださった。

手と脇腹に記された平和のための傷跡を、わたしのための傷跡として心に刻み、平和に向かって歩み出しましょう。赦しの傷跡があなたを新たに生きる者としてくださいます。

 

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