「囲いの外の羊たち」

2026年4月26日(復活節第4主日)
ヨハネによる福音書10章1節-11節

今日の福音書の10章4節では「自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。」と述べられています。ここで「連れ出す」と訳されていますが、実は「投げ出す」という言葉です。羊たちを囲いの外に投げだして良いのでしょうか。しかし、羊たちの前には羊飼いがいる。彼らは羊飼いに従って行く。羊飼いの羊だからです。

そこから考えてみれば、「囲い」は律法の囲いとして、ファリサイ派の人たちが設定した逃げられない囲いかも知れません。そうであれば、真実の羊飼いが自分の羊たちを囲いの外に投げ出すのは当然なのです。ファリサイ派は、羊を囲いに入れて、自分たちの支配する世界を守って、羊たちを食い物にしている。彼らは、神が与えた律法を守るための囲いを作った。ファリサイ派が作った囲いは、神の律法を守るためとされているのですが、実は、神の律法を乗り越えて、自分たちの律法とする強盗であり、泥棒だということでしょう。

彼らは、囲いを作って神の律法を自分たちのものとしてしまった。そこからの解放が、11章のラザロの復活だと言えます。また、9章で癒された生まれつきの盲人はファリサイ派から会堂の外に投げ出されて、イエスに出会っています。彼は、外に投げ出されなければ、イエスに出会うことはなかったのです。イエスは囲いの外にいる羊飼い。これを良く考えてみる必要があります。

羊飼いは門を通って入ると言われています。イエスは門を通って入るお方。門番は聖霊でしょう。聖霊に導かれて門を通って入るイエスが、自分の羊たちを外へと投げ出すのです。そして、先頭に立って進んで行く。彼らに、本当の牧草を食べさせるために。そして、羊たちがいのちを得るために。聖霊が門番であるならば、イエスが羊の門であることも当然なのです。なぜなら、父と子と聖霊は一つだからです。

しかし、羊飼いは羊たちのために命を捨てるとも言われています。確かに、イエスは羊たちのために命を捨てた。あの十字架の上で、命を捨てた。十字架も町の外に立っています。町の囲いの外に立っている。囲いの外で命を得ることができるように立っている十字架。わたしたちキリスト者は、囲いの外に投げ出された者たち。だからこそ、イエスに出会うことができた。囲いは、この世の慣習であり、決まり事であり、世間体でしょう。「こうでなければならない」と人々を縛り付けるもの。それが囲い。イエスはこの囲いを作って自分たちの支配権を保っている人たちから、羊たちを解放する。

律法の囲いは必要ない。むしろ、律法が一人ひとりの心に書き記されるだけで良い。預言者エレミヤやエゼキエルが預言したように、心に書き記されている律法が大事なのです。律法が心に書き記されているのはイエスの羊だけ。それが羊飼いの声を知っている羊です。彼らは、囲いの中だけではなく、囲いの外にもいる。囲いから追い出された人たちとして囲いの外にもいる。囲いの外でも、縛り付けられている人たちはいる。外に投げ出されたのに、それでもなお縛り付けられている。囲いの中に入らないように、縛り付けられている。

縛り付けられている羊たちは、いったい何に縛り付けられているのでしょう。囲いの中でも外でも、そのような人たちがいる。彼らは、苦しんでいる。そして、解放のない絶望の中にいる。このような世界を作っているのは人間たち。その中の権力を持つ人たち。彼らは自分たちのために権力を奮っている。羊のためと言いながら、自分の世界を守る。彼らは羊飼いではない。強盗、泥棒。

この強盗と泥棒に対する闘いは十字架によって行われた。羊たちを守るイエスの闘いは十字架によって行われた。この闘いを通して殺されたイエス。アベルと同じように殺された。イエスの血はアベルの血よりもよく語る血だと、ヘブライ人への手紙は述べています。イエスの血は何を語っているのでしょう。死の中にいのちがあると語っている。死を越えて生きていると語っている。死は、滅ぼされたと語っている。死の向こう側に神が立っていると語っている。捕らわれから解放する力はわたしの十字架だと語っている。

イエスの羊はこの力に与っている。イエスの羊は神の言葉を聴いている。聞いている言葉が羊を生かす牧草。牧草である神の言葉は外にある。外で聞こえている。神は外におられる。イエスも外におられる。何の守りもないと思える外に神は立っておられる。神ご自身が羊たちを守るお方として立っておられる。死んでもなお生きているイエスが神の言葉として立っておられる。イエスの言葉が羊たちを守る牧草。神の言葉はイエスご自身。イエスの声を聴くならば、神の創造する言葉が聞こえてくる。聞こえてきた言葉があなたを新しく創造する。神の羊として創造する。

イエスの羊たちは、囲いの中でも外でも、生き難さを抱えて生きている。諦めと絶望の中で生きている。その羊を外へと投げ出すために、イエスは来てくださった。羊と共に囲いの外に生きるために来てくださった。囲いの外に羊たちを連れ出し、また囲いの外にいる羊たちもイエスの群れに加えられる。こうして、一人の羊飼いに導かれ、イエスの羊たちはいのちを得る。溢れるほどにいのちを受ける。自分が獲得し、貯めこむいのちではなく、他者に与えるいのちを生きる。いのちを与えてくださった羊飼いの羊として生きる。羊飼いと羊の関係は、イエスの十字架に守られている羊たちのいのちを語っている。十字架の下にいのちがあると語っている。

あなたが救われたのは、どこから救われたのかを良く考えてみてください。この社会があなたを縛り付けているものから解放されて救われたのです。人間の支配に縛り付けられていたあなたが、イエスによって外に投げ出された。また、社会から外に投げ出されたあなたはイエスに出会うことができた。そう考えてみれば、社会の外に生きることはイエスに出会うことなのです。社会から排除されることはイエスに出会うことに至るでしょう。もちろん、イエスの羊であればイエスに出会うのです。

この世の慣習や伝統、これまでと同じようにしなければならないという決めつけ。これらがわたしたち一人ひとりのいのちを縛り付けているのです。この世の慣習や伝統と呼ばれているものは、人間が作ったものです。神のいのちは、人間の作ったものの中にはありません。神の言葉、神の十戒の中にこそ、神のいのちがある。この世の慣習を作った人たちは、これまでもこうしてきたのだから、これからもこうするべきだと言うでしょう。本当にそうなのでしょうか。「もう一度過去の栄光を」と考える人たちは、自分たちの繁栄を求める人たち。ただそれだけです。神のご意志を求めることはないのです。むしろ、神のご意志は邪魔なのです、自分たちの繁栄のためには。だからこそ、「殺すなかれ」という神のご意志を知りながら、「悪い奴らを殺した」と自慢するのです。彼が「悪い」と言うのは「自分にとって都合が悪い」というだけです。確かに、人間に縛り付けられている人たちを解放することは良いことでしょう。しかし、解放してどうするのかと言えば、自分に従わせるのです。結局、同じことをしている。このような人たちはどこにでもいる。囲いはどこにでもある。その囲いを破るのは人間ではない。イエス・キリストは人間の囲いを破るためにこの世に来てくださった。そして、いのちをかけて、ご自身の羊たちを解放してくださった。

わたしたちはイエスの羊。イエスの十字架によって解放された羊たち。わたしたちはイエスの羊であることをどのように生きていけば良いのでしょうか。もちろん、イエスに従う一人ひとりとして生きていくのです。どこかのグループに属するのではないのです。イエスに属する羊として生きていくのです。イエスだけを見て、イエスの声だけを聞いて、生きていくのです。人間の声と言葉に惑わされないように生きていく。毎週イエスの声と言葉を聞いているあなたは、イエスだけに従っていくことができるのです。真実の羊飼いであるイエスの言葉があなたを守り、いのちを与えてくださる言葉。この週もまた、イエスの声に聞き従って生きていきましょう。

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