「着せられる力」

2026年5月17日(主の昇天主日)
ルカによる福音書24章44節-53節

今日の福音書では、イエスさまは「高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」と弟子たちに命じています。「高い所からの力に覆われる」という言葉は、「高い所から、神の可能とする力を着せられる」ということです。神の可能とする力デュナミスを「着せられる」。この言葉が語っているのは、弟子たちが自分の力で立ち上がるのではなく、神の可能とする力を着せられて、立ち上がるということです。それまでは、「座っている」ように命じられています。

わたしたちが「座っている」状態は、立ち上がる力が不足している状態です。座って、力が回復されたならば、立ち上がることになります。普通に「座っている」状態は、自分のうちに力が蓄えられるのを待っている状態でしょう。その力はいったいどこから来るのでしょうか。わたしの体が力を蓄えていくために必要なのは、栄養補給であり、体力の消耗を少なくする状態にいることでしょう。それで、わたしたちは座ったり、横になったりして、力を蓄えるものです。それと同じように思えますけれど、イエスがおっしゃるのは「高い所からの可能とする力」のことです。その力は、わたしのうちに蓄えられるのではありません。その力がわたしに着せられるのです。どうやって着せられるのでしょうか。もちろん、自分で着るのではありませんから、誰かが着せてくださる。着せてくださるのは神さま。高い所からの力は、わたしが造ることも蓄えることもできません。神さまが着せてくださらなければ誰も着ることができないのです。

では、どうして神さまは着せてくださるのでしょうか。何のために着せてくださるのでしょうか。イエスさまがおっしゃるように「証人となる」ためです。証人の証言が語られるのは、その人が経験したことに基づいて語られます。ですから、証人は経験しなければならないのです、神さまの可能とする力を。そのためには、待つことが必要だというわけです。力を蓄えるために座っているのではありません。力を着せられるまで座っているのです。それは、時を待つことです。自分で、このときまでに力を蓄えようとするのがわたしたちです。「あと一時間はじっとして蓄えよう」と考えます。疲れが激しければ、「一日寝ていよう」という場合もあるでしょう。そのように自分で制御できると考えるのが、わたしたちが力を蓄えるということです。ところが、神の可能とする力を着せられることに関しては、わたしたちが制御できるわけではありません。ただ神さまの時と所において、神さまから与えられるものです。ですから、弟子たちが座っているとは言っても、彼らが力を蓄えているわけではないのです。

その前に、イエスさまはこうおっしゃっています。「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。」と。「約束されたもの」と訳されていますが、実は「父の約束」が原文です。確かに「父の約束」は「約束したもの」を含んでいるでしょう。しかし、「約束したもの」と「約束」とは同じものではありません。「何かを与える」という「約束」の「何か」を「約束されたもの」とイエスはおっしゃっているとわたしたちは思うかも知れません。しかし、「約束」そのものに「約束されたもの」は含まれていますが、「約束されたもの」だけではないのです。

「もの」さえもらえれば良いというのが人間的な感覚でしょう。しかし、「約束」という事柄は、「もの」だけではなく「もの」を包んでいる「父の約束」そのものなのです。約束してくださったお方の心が「約束」そのものです。ですから、ものさえもらえば良いわけではないのです。むしろ、ものだけもらって、ものを自分のために使うとか、自分の力を誇示するために使うということが、わたしたち人間が陥ってしまうことでしょう。しかし、「父の約束」は父がこのように使って欲しいという心そのものです。ですから、弟子たちは「座っている」必要があるのです。

着せてくださるお方がいて、着せられることが起こるのと同じように、約束してくださったお方の心があって、約束が実現するのです。そう考えてみれば、「父の約束」とは「父の心」とも言えます。その父の心を実現するために送られる「約束」。これをイエスさまは送るとおっしゃっているのです。

この「送る」と訳されている言葉も実は「派遣する」という意味です。イエスさまが派遣するのが「父の約束」だと言われているのです。ということは、父の心とイエスさまの派遣の意志があって、「約束」は弟子たちの上に着せられるのです。この出来事はあくまで神さまとイエスさまの意志を着せられる出来事なのです。だとすると、弟子たちがここまで座っていれば約束を着せてもらえるだろうなどと考えることはできないということです。弟子たちの主体は何一つない。あくまで神さまとイエスさまの主体の中に置かれるために、座っている必要がある。イエスさまが「着せられる」とおっしゃるのはそういうことです。

そのためには、ただ座っているしかない。「まだ着せてもらえない」と焦ることではない。「もうそろそろ着せてくれても良いのに」と考えている間は着せられないのです。むしろ、忘れた頃に着せられるでしょう。なぜなら、自分が制御できないという諦めにも似た状態に入ることが必要だからです。弟子たちが自分を捨てることが必要なのです。そのための時間が「座っている」時間なのです。

父の約束を着せられたときには、弟子たちは「証人となる」と言われています。何の証人かと言えば「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。」ことの証人。また、「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」ことの証人。ということは、弟子たちがまず宣べ伝える事柄を生きている必要がある。苦しみ死んだお方が復活なさったことを信じること。また、自分自身が悔い改めていること。これらの経験を通して、証人とされる。そのために「座っている」ときが必要なのです。もちろん、「悔い改め」は単なる反省ではありません。生きる向きを変えることです。自分を主体として生きていたわたしが向きを変えられて、神さまを主体として生きるように変えられることです。

「座っている」ときに、何をしているのかと言えば、イエスさまに起こった神さまの出来事を自分のこととして受け入れるために、聖書を読み自分自身で良く考えるのです。考えない人は、座っていても寝ているでしょう。弟子たちは寝ているのではありません。目覚めて、座っている。この座っている状態において、聖書を読み、学ぶのです。そうしてこそ、自分の内面に働いている自分の罪を見詰め、罪人であることを認めることに至るでしょう。そのとき、イエスさまの十字架がわたしのためであることを受け取る。罪赦された自分自身を知る。そのようにされたとき、高い所からの力を着せられているのです。
自らの力が悪しか行わないことを受け入れるとき、高い所からの可能とする神の力を着せられる。父の約束はそのとき彼らを新しくする。人間的な思惑や行動が邪魔をしている状態から脱け出すことによって、神さまの可能とする力を着せられる。自分の力に絶望する必要がある。「人間の心の思いは幼い時から悪である。」ということを知る必要がある。悪であるがゆえに、善を為そうとしても悪しか行うことができない自分自身であることを知る必要がある。このようなところに至ったときにこそ、神の可能とする力を着せられているのです。だからこそ、それまでは「都の中で、座っていなさい」とイエスさまはおっしゃる。

わたしたちキリスト者は、このように座っているしかないところから、神さまの可能とする力を着せられて、立ち上がるようにされた存在です。そのわたしたちが、再び自分の力や人間の力に頼るような生き方に陥るならば、また座っている必要がある。座っていることによって、自分の力に絶望したあのときを思い起こす。そして、高い所からの神の可能とする力を着せていただける。常に、わたしたちが新しく生きることを願っておられる「父の約束」はいつもわたしたちの上に着せられる状態にある。それを受け入れることができるのは、座っている人。座って、自らを見詰めている人。神さまの可能とする力があなたを立ち上がらせるまで、座っていることができますように、共に祈りましょう。

Comments are closed.