2026年5月24日(聖霊降臨日)
ヨハネによる福音書7章37節-39節
「生きた水が川となって流れ出るようになる」とイエスさまはおっしゃっています。「流れ出る」のは溢れるからです。溢れなければ、流れ出ることはない。そのために、座っていることが必要だと、イエスさまは先週おっしゃっていました。座って、聖書を読み、自分を顧み、考えて、祈ることが必要だとおっしゃっていた。それは、自分の内に貯め込むのではなく、溢れるほどに注がれている神さまの愛と憐れみを受け取ることです。受け取る人は、溢れ出す人になる。
その人は、自分の名誉とか認められることを求めることはない。溢れ出さないではいられないからです。これは、預言者たちが経験したことでした。彼らは、神さまの言葉を受け取った。受け取った言葉が溢れ出してきた。それは、彼らが溢れ出させようとしたわけではない。自分のうちに留めていることができなくなって、溢れ出した。彼らが、伝えたくて語ったとわたしたちは思うでしょう。ところが、伝えると彼らは批判ばかり受けました。それで、もう話さないでおこうと思ったのです。でも、抑えておくことができなくなって、溢れ出してきた。それで、さらに彼らは嫌われ、批判されたのです。エレミヤはそう告白しています。
預言者が神さまの言葉を受け取っているのは、神さまを愛しているからです。神さまの愛が厳しい裁きの言葉として彼らのうちに注がれた。この言葉を留めておくことができなかった。神さまの言葉を与えられた人は、裁きの言葉の中にある神さまの愛を受け取っているのです。人間を愛するがゆえの愛。ご自分から離れてしまっている人間をご自分の許へと連れ戻そうとする神さまの愛。この言葉を留めておくことができなかった預言者たち。そして、イエスさまも預言者たちと同じように、厳しい愛の言葉を語った。その言葉は、聞く人によって違うように聞こえてきたのです。
社会から排除されている人たちには、救いとして聞こえてきた。社会の中で安穏と暮らしている人たちには、裁きとして聞こえてきた。一つの神さまの言葉が、違うように聞こえてくるということは、聞いた人の心がどこにあるかを示しています。救いとして聞こえてきた人は、苦難の中にあって、神さまの義しさを求めているでしょう。裁きとして聞こえてきた人は、安住の中にあって自分たちの立場を守りたいと考えているでしょう。同じ言葉が、神さまの義しさとして聞こえてくる人。同じ言葉が、自分たちの立場を壊そうとしていると聞こえてくる人。それぞれの立場によって、神さまの言葉が救いになることもあれば、裁きになることもある。それぞれの人間の問題を明らかにするのが、神さまの言葉なのです。
「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」とイエスさまはおっしゃっています。イエスさまを信じる者とは、聖書の言葉、神さまの言葉を信じる者のことです。イエスさまは神さまの言葉だからです。神さまの言葉を信じる者は、神さまの言葉を愛している人です。厳しい言葉であろうと、慰めの言葉であろうと、同じ神さまの愛の心が宿っていると耳を開く人です。そのような人の内から「生ける水の川」が流れ出すとイエスさまはおっしゃっています。神さまの愛は、溢れ出していくものです。自分の中に留めておくことができないものです。
わたしたちは、慰めの言葉は聞きたい。しかし、裁きの言葉は聞きたくないでしょう。慰めの言葉、優しい言葉に留まりたい。その言葉は溢れることなく、貯め込まれていく。そして、貯め込んでおきたくない裁きの言葉は聞かない。このような区別を行うとき、わたしたちは溢れ出すことはないのです。どちらであろうとも、神さまの言葉は外へと溢れ出すのです。溢れ出す言葉そのものに促されて、神さまの義しさに生きることを伝える。そうすることによって、他の人が義しく生きることができる言葉を伝える。これは、神さまの言葉そのものが溢れ出ることなのです。裁きも救いも神さまの愛だからです。
そうは言っても、他者に裁きの言葉を伝えるとしたら、受け取る人はいないでしょう。預言者と同じように、排除されるでしょう。そのとき、わたしは溢れ出しているだけで、どこにも帰るところがないのでしょうか。
本来、溢れ出したものは溢れ出した根源に戻っていくものです。戻るところがないとすれば、溢れ出すだけで無駄に流れていくということになります。誰かに受け取ってもらえるならば、その人からまた溢れ出すことが起こるでしょう。受け取る人がいないとすれば、溢れ出すことが虚しくなるように思えます。しかし、溢れ出した根源に戻るのであれば、何も虚しいわけではありません。元々の神さまの許から出てきて、神さまの許へ帰って行くのですから、再び神さまが溢れ出させるでしょう。そう考えてみれば、溢れ出す先に留まるわけではありません。受け取る人がいなくても虚しくはないのです。
わたしたちは、何か成果がなければ虚しいと考えてしまいますが、根源に戻るのであれば虚しいことはないのです。そうであれば、溢れ出すことを溢れ出させていれば良い。自分が溢れ出させたわけではないのですから、自分の成果がないと思えても落胆しなくて良い。なぜなら、わたしが成果を得て、認められるために溢れ出すわけではないからです。溢れ出すことだけが大事なことなのです。
この溢れ出す根源は、イエスさまを信じること、イエスさまを愛することです。その愛も、聖霊によって与えられる愛です。ですから、イエスさまを愛するように働く聖霊が、わたしを通して溢れ出しているだけです。これを誰かに評価してもらう必要はありません。イエスさまと別の弁護者である聖霊が、イエスさまの愛をわたしに注いでくださっている。受け取ったわたしは溢れ出す。溢れ出したものは、イエスさまの許に戻る。誰かに受け止めてもらえたとしても、最終的にイエスさまの許に戻る。戻るべきところが決まっている。それで良いのです。
イザヤ書55章10節、11節にはこのような言葉があります。「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。」。神さまが語られた言葉は、その使命を果たすと言われています。わたしたち人間にとっては、虚しく思えても、見えないところで使命を果たしているのが、神さまの言葉だということです。そうであれば、わたしから溢れ出したことの結果、成果を確認する必要はない。ただ、溢れ出す川に委ねれば良い。
溢れ出す生ける水の川は、溢れ出した大元である神さまの許に戻る。わたしが溢れ出させることはない。溢れ出すものが救いか裁きかを分ける必要もない。どちらにしても、神さまの愛に変わりはない。神さまの愛を受け取る人は受け取る。それが神さまの溢れ出すお働きです。
使徒言行録に述べられている聖霊降臨の出来事は、ただ溢れ出しただけ。ペトロが語ったことは、神さまの愛ですが、悔い改めでした。本日の日課に続く箇所でペトロはこう述べています。「イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」と。あなたがたが殺したイエスと言っています。その方がメシアであるということを受け取りなさいと言っているのです。それで、「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。」と述べられています。優しい言葉を聞いて悔い改めたのではなく、裁きの言葉、殺害の事実を述べる言葉が、洗礼へと導いたということです。この報告を良く考えてみる必要があります。
わたしたちから溢れ出る裁きの言葉が自分の罪を指摘していると聞く人は、愛の言葉として聞くのです。神さまが望む事柄を実現するのです。この言葉を受け入れたあなたの内から、溢れ出る生ける水の川が流れ出す。溢れ出すままに流れさせる人は、魂を潤され、神さまに信頼して生きる道を歩むことができます。聖霊降臨日の今日、わたしたちは改めて、神さまの言葉を受け取りましょう。溢れ出す生ける水があなた自身を潤してくださいます。

