「出会わせる神」

2026年6月7日(聖霊降臨後第2主日)
マタイによる福音書9章9節-13節、18節-26節

神さまの恵みというものは神さまが与えるものです。与える神さまのお働きを受け取ることだけがわたしたち人間ができることです。そうは言っても、誰でも受け取るわけではありません。受け取る人が受け取る。受け取らない人は受け取らない。

神さまの恵みはすべての人の前に置かれています。置かれているものを、自分が受け取るかどうかを判断するとき、受け取ることはありません。なぜなら、わたしが判断するとき、神さまの恵みは神さまのものではなくわたしのものになってしまうからです。わたしが主体になるとき、神さまはわたしの下に置かれるのです。

良いものならば受け取る。悪いものならば受け取らない。それでは神さまの恵みではなくなるでしょう。わたしがわたしにとって良いものだけを受け取るとすれば、神さまはただのガチャポンの機械になります。神さまはわたしの道具になるのです。神さまを道具にするのが人間の意志です。わたしの意志が神さまを道具にする。たとえ道具にされたとしても、神さまの意志は消えることはありません。神さまの消えないご意志は厳然とあるのです。わたしが神さまの意志を判断して選ぶならば、恵みは神さまの意志とは反対のものになるでしょう。つまり、呪いになるのです。しかし、素直に受け取る人には恵みは恵みです。

では、素直に受け取る人はどのような人でしょうか。神さまのご意志を信頼している人です。それがマタイであり、罪人たちであり、また癒された女性と少女です。

イエスさまは、マタイを見て、わたしに従いなさいとおっしゃる。イエスさまはマタイを見ただけ。マタイは神さまが見せた存在。神さまが出会わせた存在。罪人たちにもイエスさまは出会っておられる。なぜなら、彼らはイエスさまの許に来たとき、彼らが選んで来たわけではないからです。他の人とイエスさまとを比較して、イエスさまを選んだのではないのです。罪人たちは、すべての人から見捨てられていた人たちです。彼らの心に、聴こえない声に耳を傾けてくれる人はいなかったのです。その彼らが最後の望みのようにイエスさまの許へやってきた。彼らが判断したのではなく、神さまがイエスさまと彼らとを結びつけてくださったということです。神さまが、イエスさまと彼らを出会わせてくださった。

それでは、イエスさまは出会った存在をすべて受け入れるのでしょうか。そう、イエスさまはすべての人を受け入れる。反対に、受け入れるイエスさまを受け入れない人もいます。マタイはイエスさまを受け入れた。それでイエスさまに従った。徴税人がイエスさまに従って、徴税人ではなくなる。マタイはマタイとして生きるのです。それがイエスさまの招きです。

わたしたち人間は、自分を生きるように造られています。わたしにしか生きることができない人生がある。わたしに与えられた人生がある。それなのに、与えられた人生ではなく、自分がこうなりたいと思う人生を作ろうとします。そのために、自分を周りに合わせるということも起こります。周りに合わせる生き方を繰り返しているうちに、自分を失っていく。それが、わたしたちを縛り付けている社会という囲いだということを、ヨハネ福音書でイエスさまは教えてくださいました。

イエスさまが「自分を捨てて、わたしに従いなさい」とおっしゃった言葉は、わたしが周りに合わせて自分を失っていることと同じだと思う人がいるでしょう。わたしは周りに合わせて、わたしを主張しないと思っているかも知れません。しかし、周りに合わせる目的を持っているのです。その目的のために、わたしは周りに合わせている。そうすると、目的そのものに縛られているのです。その目的は、除け者にされないで、社会に受け入れてもらうという目的です。受け入れてもらった社会を動かすような地位につけば、その地位を守るために奔走する。地位を守ろうという目的がわたしを縛り付けるのです。まったく不自由な世界です。イエスさまは、そのような生き方に縛られているわたしたちを解放するために来てくださった。

自分を捨てるということは、わたしの目的を捨てることです。わたしが地位を守り、それまで積み上げてきたものを守ろうとする心。その心に縛られているわたしを捨てること。そのとき、わたしたちは自分を生きることができるのです。そのために、イエスさまが来てくださった。マタイも徴税人であることで、生活の糧を得ていたでしょう。その働きを捨てて、立ち上がったのです。生活の糧を得るという目的に縛られている自分を捨てたのです。生活の糧を得るために、罪人として排除される人生。この人生を捨てたのです。

彼は社会から排除されていた。排除されているのに、社会は彼の働きである徴税人を必要としている。なぜなら、徴税人がいなければ、ローマへの税金を納めることができないからです。彼を罪人としている社会は、罪人のおかげでローマの恩恵を受けている。このおかしな構造が社会には存在している。誰一人として、この社会の構造から脱け出すことはできません。それなのに、罪人だと排除する。このような人たちは、自分たちが罪に加担することなく、他の人に罪を押しつけて、安穏として、義しい人間だと思っている。このような社会から排除されている人たちが罪人たちであり、病人たちだったのです。

マタイはおかしいと思いながらも、仕方ないこととして受け入れて生きていた。そんな中で、イエスさまに出会うのです。そして、彼は立ち上がって、イエスさまに従って行った。癒された女性と少女も同じです。癒された女性も汚れがうつると避けられていました。その彼女が、群衆の中に入って、イエスさまの服の裾に触れる。こんなことをしたら、周りの人たちに何と言われるか。普通ならばそう考えるでしょう。しかし、彼女も誰にも助けを求めることができなかった。最後の望みとして、神さまはイエスさまに出会わせてくださった。

少女も同じく、皆があきらめているところで、イエスさまに出会いました。もはや少女は起き上がることができないと思われていたのです。イエスさまは、少女の周りにいた人たちに「あちらへ行きなさい。」と言っています。「少女から離れなさい」という意味です。そのイエスさまが「少女は死んだのではない。眠っているのだ。」とおっしゃった言葉を人々はあざ笑ったと記されています。しかし、イエスさまが手を取ると、少女は立ち上がったのです。

この人たちは、周りから縛り付けられていた鎖を解いていただいたのです。マタイも女性も少女も、周りの社会から縛り付けられていた。立ち上がることができないように縛り付けられていた。その一人ひとりを、イエスさまは立ち上がらせる。一人ひとりがイエスさまに出会わされた、神さまによって。神さまが彼らを自分自身として生きる力を働かせてくださった。イエスさまを通して、神さまの働きが彼らのうちに起こされた。わたしたちもまた、イエスさまに出会うことによって、立ち上がることができるようにされたのではないでしょうか。自分を自分として生きることができるようにされたのではないでしょうか。自分を捨てざるを得ないようにされたのではないでしょうか。

わたしたちは自分で自分を捨てることなどできないのです。むしろ、自分で捨てたと自負する場合には、自分を捨てていません。捨てざるを得ないとされたとき、捨てるという自負もなく捨てているのです。そのようなところに置いてくださったのは神さまです。神さまが、あなたを立ち上がらせるために、あなたが自分を捨てざるを得ない状況に置かれた。この状況を素直に受け入れることによって、マタイも女性も少女も立ち上がることになったのです。

わたしたちが救われたのは、神さまのお働きを受け入れざるを得ないように導かれたからです。イエスさまに出会ったのは、神さまが出会わせてくださったから。救われたのは、あなたが神さまの恵みを恵みとして受け入れるようにされていたから。マタイと女性と少女と共に立ち上がって、わたしたちもイエスさまに従って生きて行きましょう。

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