2026年6月14日(聖霊降臨後第3主日)
マタイによる福音書9章35節〜10章8節
イエスさまが弟子たちを派遣するにあたって、こうおっしゃっています。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。」。この「異邦人の道へと退却するな」という言葉は、どういうことでしょうか。ここで使われている言葉は、「退却」や「退く」という意味の言葉です。道は生き方です。だから、異邦人の生き方に逃げるなという意味でしょう。
「異邦人の生き方に逃げる」とはどういうことなのでしょう。弟子たちはユダヤ人です。ユダヤ人の生き方は神の意志に従うという生き方です。この生き方から逃げることが、異邦人の生き方に逃げることでしょう。その神の意志は「イスラエルの失われた羊」の上にあると、イエスさまはおっしゃっています。イスラエルの神ヤーウェは、失われた存在を探し求めている。だからこそ、イエスさまが「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。」と命じる。この命令に従うためには「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」ということです。
この「ただで」とは「無償の賜物」であるドレアンというギリシア語を語根としている副詞です。無償の賜物とは、神さまが与えてくださったものという意味です。神さまから与えられたものについて、イエスさまは、「病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。」とおっしゃっている。これらの働きは、あなたがたが行うことではなく、神さまの無償の賜物として、病人に、死者に、皮膚病の人に、悪霊に取り憑かれている人に働くのだということです。ですから、自分の力だと思い上がるなということでもあります。
わたしたちは、イエスさまに命令されたことを行うために努力すべきだと思っていますし、努力してイエスさまに喜んでいただきたいと思っています。それでも、努力することによって、自分の力だと思い上がることにもなります。努力は必要でしょう。その努力を行わせる力は、神さまの言葉です。これをわたしたちは忘れてしまうのです。
わたしが自分の力に絶望していたときに、パウロの言葉を思い出したことがあります。「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」というフィリピの信徒への手紙2章13節の言葉です。この言葉は、神さまはあなたがたのうちで働くお方である。ということですが、そのお働きは、神さまの良きご意志のために、わたしが意志することが起こり、わたしが働くことが起こるように、働いておられるのが神さまなのだということです。つまり、わたしが誰かのために行おうとする意志を起こしてくださるのは神さまです。起こされた意志に従って、働くようにしてくださるのも神さまです。わたしが、努力して、神さまのために働くのではないのです。努力しようとする意志を起こしてくださるのも神さまです。そうであれば、神さまのお働きがなければ、わたしは努力も実行もできないということです。わたしは自分の力に絶望していたとき、この言葉を思い起こしたのです。思い起こさせたのも神さまです。そして、神さまの言葉に従って、やってみようと思わされた。すべては神さまがおられなければ、始まらなかった。このようなことは、みなさんにもあるはずです。
イエスさまが弟子たちに「ただで与えなさい」とおっしゃるのも、そのような神さまのお働きに与っているわたしであるという自覚の下に働きなさいと命じておられるのです。
みなさんが、自分の努力の結果、良い働きができたと思うかも知れません。その努力を評価して欲しいと願うかも知れません。評価され、誉められるならば、また頑張ろうと思える。そう思うでしょう。最初はそうであったとしても、次第に評価されるために働くことに陥ってしまいます。認められるために努力することに落ちてしまいます。意志を起こされたわたしではなく、自分の意志が生まれるのです。評価されたいという意志。認められたいという意志。もっと誉めて欲しいという意志。それがわたしの動機になるとすれば、何かを獲得するために生きることになる。おそらく、そのような生き方を「異邦人の道へ退却するな」とイエスさまはおっしゃった。そこから脱け出してきたあなたがたではないのかと、イエスさまは弟子たちに言うのです。これは、わたしたちキリスト者にも言われている言葉です。
わたしたちは、この世の価値である評価、栄誉を求めて生きる道において、疲れていたはずです。そのようなところで一喜一憂する生き方に疑問を持っていたはずです。そこから脱け出したいと思っていたはずです。そのようなわたしに、イエスさまは出会ってくださった。そして、解放してくださった。再び、その道に戻るなとイエスさまは弟子たちに命じたのです。
何事かを行うとき、わたしたちは異邦人の道に退却することになる。脱け出したはずの道に戻ることになる。そのとき、わたしたちは評価してもらう相手を選ぶようになるでしょう。「イスラエルの家の失われた羊」は、わたしが行ったことを評価してくれるでしょうか。感謝してくれるかも知れないけれど、評価して、栄誉を与えてくれるでしょうか。イスラエルの家から失われた羊に、そのようなことができるはずはありません。与えたものへの報いを返してくれるような力はない。そのような人たちのところへ行きなさいとイエスさまはおっしゃったのです。あなたがたも無償で与えられた「権威」によって、彼らを癒し、福音を伝えるのだと、イエスさまはおっしゃった。それは、自分が無償で与えられたことを与えられたままに与えなさいということです。
わたしたちの社会にあっては、自分が能力を付けるために、お金がかかっていると考えます。その費用は、働きに対する対価として支払われるはずだと思います。ですから、資格を取り、資格を使って、対価を得る仕事を探す。もちろん、その仕事を通して、人を助けたいという心が最初にあった。しかし、自分の価値を評価されることに慣れていくと、初心を忘れて、評価にこだわることになる。このようになるとき、「無償の賜物の行方」は失われてしまうのです。初心を忘れてしまうと、異邦人の道へと退くことになる。
イエスさまの弟子たちは、無償の賜物を与えられて、派遣されたのです。行くべきところは「失われた羊」。社会から見捨てられた人たちのところへと行きなさいとイエスさまはおっしゃる。彼らは、何も返すことができないから。彼らは、受けるだけだから。それでも、彼らが生きる勇気を起こされ、活き活きと生き始めるならば、今度は彼らが与える存在にされていくでしょう。パウロがコリントの信徒への手紙一3章6節で言うように「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。」と言う通りです。
「無償の賜物」は、受け取られ、受け渡されていくもの。無償の賜物の行方は、途切れることなく、受け渡されていく道なのです。イエスさまは、弟子たちにこの道を歩いて欲しいと願われた。それは、イエスさまの十字架の道です。
十字架の救いは、無償で与えられています。自分の死をもって、自分の罪を贖うことのなかったわたしたちのために、イエスさまは十字架の死を負ってくださった。わたしは自分の罪の赦しを無償で与えられたのです。ただ信じるだけで与えられたのです。わたしたちは、この無償の賜物である十字架を他の人に与えていく。これがイエスさまが弟子たちを派遣したお心です。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」とイエスさまは弟子たちに言っています。この言葉を聞いて、「誰かお願いします。」とはならないでしょう。「わたしがおります。わたしをお遣わしください。」とイザヤのように応えるのではないでしょうか。それが、無償の賜物の行方なのです。あなたから誰かに、誰かからまた誰かにと受け継がれていく無償の賜物が広がっていきますように。あなたを遣わしてくださる主のお心に従って、生きていきましょう。

