2026年6月21日(聖霊降臨後第4主日)
マタイによる福音書10章24節〜39節
「わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」とイエスさまはおっしゃっています。「命を失う」と言われると、死ななければならないと言われているように思えます。死んだならば、命は失う。それなのに「それを得る」とイエスさまは言う。確かに、イエスさまは死んで、いのちを得たお方。それは、イエスさまが通常の人間ではなかったからで、普通の人間であれば、「死んで終わりでしょう。」と思ってしまいます。
ここで「命」と訳されている言葉はプシュケーというギリシア語です。この言葉は「命」と訳されることもありますが、「命」というギリシア語は別にゾーエーという言葉があります。プシュケーは「魂」と訳される言葉です。「魂」は、わたしがわたしであること。わたし自身のことです。だとすれば、イエスさまがおっしゃっている言葉は、こうなります。「わたしのために自分自身を失う者は、かえってそれを得るのである。」と。では、イエスさまのために自分自身を失うとはどういうことでしょうか。
わたしたちが自分自身だと思っているものは、わたしの意志だと考えられています。自分が「こうしたい」、「このようでありたい」、「このように生きたい」という意志。自分の願望であったり、自分の欲望であったり、自分の生き甲斐であったり。これを、わたしたちは「わたし自身」と思っています。しかし、それらは「願望」であって、わたしそのものが生きていることではありません。この「願望」を「わたし自身」だと考える人は、イエスさまの言葉によれば、「イエスさまのために自分の願望を失う人は、それを得る」ということになります。そうなると、わたしは「願望を得る」ために、願望を失うことが必要なのだと思うでしょう。そうなると、いつまでも「願望」から抜け出せなくなります。こうして、わたしたちは「自分自身を失う」ことになるのです。
自分がこうなりたいとか生き甲斐を持ちたいと考えるとき、わたしたちはそれを得るために奔走します。生き甲斐があれば、生きていて良いと自分に言うことができるからです。わたしの生き甲斐は、わたしが生きていくために、必要なものだと、わたしたちは考えています。しかし、生き甲斐などというこの世的なものに還元できないのがわたし自身ではないでしょうか。「イエスさまのために生きる」ということは、イエスさまがわたしの主体、わたしの魂となることなのです。
わたしたちは、自分が求める生き甲斐、自分が求める「生きていて良い」という自己肯定を求めています。この自己肯定は、自分の存在意義を認めて欲しいという欲求です。「あなたがいてくれて良かった」と人から言われたい。だから、人のために何かしてあげようとする。これは、わたしの存在意義を得るために、人を利用することになります。利用される人は、「なんて良い人」と感謝するかもしれませんが、わたしも「なんて良い人」をもっと演じなければならなくなります。こうして、「なんて良い人」を演じることが負担になってくることも起こります。そして、「いつまでもわたしに頼らないで」と言いたくなることも起こるでしょう。そのとき、わたしはいったい何のために生きているのか分からなくなるのです。イエスさまが弟子たちに教えておられるのは、そのような願望や欲望に振り回されない生き方です。それが「イエスさまのために自分の魂を失う」ことなのです。
ここで「失う」と訳されている言葉は、「滅ぼす」という言葉です。「わたしのために、自分の魂を滅ぼしている者は、それを発見するであろう。」が原文です。その前の文は、「自分の魂を発見している者は、それを滅ぼすであろう。」となっています。「魂を滅ぼす」、「魂を発見する」とはどういうことでしょうか。
発見するとき、発見したものを大切に保存することになるでしょう。ですから、魂を発見している人は、魂を大切に保存している人です。その人は、発見した魂にすべてをかけています。それで、魂と共に栄えたり、滅んだりすることになります。ところが、イエスさまのために、イエスさまを目的として、自分の魂を滅ぼす人は、イエスさまが魂となるので、イエスさまが死んで生きたように、その人の魂は永遠に生きるイエスさまになるということです。つまり、イエスさまがわたしの魂として、発見されるということです。
だからこそ、イエスさまは32節、33節でこうおっしゃっているのです。「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」と。原文には「仲間」などというこの世的な言葉はありません。こんな訳にした人の信仰が分からないと思えますが、原文はこうなっています。「わたしのうちで告白する者を、わたしもまた、その人のうちで告白する」と。これは信仰告白なのです。「仲間告白」ではないのです。イエスさまを信じていることを、「イエスさまのうちで告白する」とおっしゃるのです。この信仰告白をする人、その人は、「その人のうちで、イエスさまが告白する」人となっているというわけです。イエスさまを信じる人は、イエスさまが天の父の前で、告白してくださるということです。「この人はわたしのうちに生きています。わたしもこの人のうちに生きています。」と告白してくださる。最後の審判のときに、イエスさまが保証人になってくださるわけです。
ということは、イエスさまのうちで告白する信仰者のうちに生きているイエスさまがその人の魂としてその人を生かしているということです。この魂を見出すためには、自分が大切に思っている自分の魂を滅ぼす必要があるということです。そのために、イエスさまは剣を投げ込むとおっしゃる。
息子と父、娘と母、嫁と姑。それぞれに分離することで、一人ひとりが自分を生きることができる。支配されている関係から解放されて、息子は息子、娘は娘、嫁は嫁として自分を生きる。だとすれば、家族を分離させるのがイエスさまだということになります。「人間を恐れるな」とおっしゃるのも同じ事柄です。
わたしたちは、人間を恐れ、支配され、脱け出せなくなってしまう。自分自身を失ってしまうことになる。わたしの魂は、わたしが大切に思う人になってしまう。わたしの魂は、わたしが大切にしたい地位や名誉になってしまう。お金が魂になってしまう人もいるでしょう。わたしの魂は、実は失われ、縛り付けられているのに、わたしの大切な魂だと思い込む。今、持っているものを失いたくないと思ってしまう。こうして、わたしたちは互いに縛り合うことになる。このような関係を断ち切るのが、イエスさまが投げ込む剣。そうして、誰よりも大切なお方として、イエスさまに従う。このように生きる人は、嘘をつくことはない。隠すこともない。誤魔化す生き方から、真実な生き方に脱け出す。それが、わたしたちキリスト者であると、イエスさまはおっしゃるのです。
「わたしにふさわしくない。」と繰り返しておられる言葉は、「重さ」です。「イエスさまの重さとして存在していない」ということになりますが、それはイエスさまの重さに釣り合いが取れる存在ということです。到底、わたしたちはイエスさまと同じ重さを持っているとは思えません。イエスさまは、すべての人たちの罪を負われたのですから、そのお方とわたしが同じ重さであるはずはないと思ってしまうでしょう。しかし、イエスさまがわたしの魂としてわたしのうちに生きてくださっているならば、わたしはイエスさまと同じ重さを生きていることになります。イエスさまのうちに生きる人は、イエスさまと同じ重さを生きる人なのです。
あなたが与えられた信仰があなたの願いや幻想ではなく、神さまから与えられた信仰であるならば、あなたのうちにイエスさまが魂となってくださっています。あなたもまた、イエスさまのうちに受け入れられています。この福音を聞く人は、地上のものに惑わされることなく、神さまに造られた自分自身を、造られたままに生きていくのです。一人ひとりを包んでくださっているイエスさまのうちに生きる人は、イエスさまにとっても魂であり、その人にとってはイエスさまこそわたしの魂なのです。あなたが、イエスさまと魂の交流を生きる人でありますように。

