「軛の中に安らぐ」

2026年7月5日(聖霊降臨後第6主日)
マタイによる福音書11章16節-19節、25節-30節

今日イエスさまはさまざまなことを語っていると思えますが、実は一つのことを語っているのです。神さまの啓示がなければ真実には至れないということです。洗礼者ヨハネとイエスさまはどちらも神さまの義しさを宣べ伝えています。それなのに、洗礼者ヨハネが食べないと、「悪霊に取り憑かれている」と批判する。では、食べるなら批判されないかと言えば、イエスさまが食べると「大食いの大酒飲み、徴税人の友だち、罪人の友だち」と批判する。食べても食べなくても批判される。二人が語っていることとは違うことで批判する。ただ批判したいのでしょう。そのような人間は聞きたい言葉しか聞かない。「休ませてあげよう。」に続く、イエスさまの言葉は聴いていないでしょう。「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。」、「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」とイエスさまはおっしゃっています。ずっと休んでいるわけではない。イエスさまの軛を負い、イエスさまに学ぶ。これが、今日イエスさまがおっしゃっていることです。しかし、それは強制的に負わされるものではない。父なる神さまの啓示を受け取る素直な幼子のような者にだけ与えられる。しかも、イエスさまが啓示しようと思われる人にしか啓示されない。

学ぶということは、「勉強しなさい」と言われて勉強するかと言えばそうではありません。現代において「正解」を出さないといけないという考え方が広がっています。学ぶということは、正解を出すことだと思っているわけです。学ぶということは、イエスさまがおっしゃるように「わたしに学びなさい」ということです。イエスさまの出来事から学ぶということです。イエスさまから学ばない人は、成功した人、皆から褒められる人から学ぶ。この世的な成功が正解だと思っているのです。洗礼者ヨハネもイエスさまも、この世的な生き方とは正反対の生き方をしたのです。それで、批判された。そのお方から学ぶとすれば、この世的な生き方について、本当に義しい生き方なのかを問うということでしょう。学ぶということは、問いを生きることです。そのように生きる人には神さまからの啓示があるとイエスさまはおっしゃっているのです。学ぶ人は、啓示を受けて、学ぶ心が起こされる。啓示を受けた人は、今まで見ていた世界と違う世界を見せられているのです。
学ぶということは、何か疑問に感じることがあるから起こるもの。「これはどういう意味だろうか」と思うから、調べることも起こります。疑問を感じたり、分からないことを分からないと認める心は、「疑問を感じなさい」と言われても感じない人は感じない。「分からないことがあれば聞いてください」と言っても、分からないことが分からない。

今まで当たり前だと思っていたことを、ただ言われたように行っていた人が、「どうしてこのように行うのだろうか」と感じる。誰もがやっているからと、そうやってきた人が「みんな分かって行っているのだろうか。」、「どうしてみんな疑問に思わないのだろうか」と思う。そのようなとき、わたしたちは啓示された世界を垣間見ているのです。それまでのわたしでは感じなかったこと、考えなかったことがわたしの心に湧き上がってくる。そのとき、わたしたちは考え、学ぶことを始めています。現実の生活の中では、このような考えに陥ると、今までやっていることが中断されてしまうものです。だから、考えない方が良いと、問いに蓋をする。しかし、啓示された人は、考えてしまうのです。啓示された世界は、わたしたちに問いを投げかけてくる世界。そのような世界を啓かれる人は、幼子のような人だと言われています。

確かに、幼子は「こうしなさい」と言われても「どうしてしなきゃいけないの」と思うでしょう。それに対して、「こうすることになっているの。」と大人は言ってしまう。そうして、幼子のうちに起こった学ぶ心に蓋をしてしまう。それが大人になることだと思っている。大人とは問いに蓋をする人、なのでしょうか。今の世の中は「正解」を求める世界です。「これが正解だ」と知ったならば、考えることは起こりません。考えなくて良いことを求めているのが「正解」を求める生き方ではないかと思えます。わたしたちが生きているということは、問いを生きているようなものです。答えを探しながら問いに取り組んで行くようなものです。問いの答えは自分で見つけるもの。そうでなければ、わたしのものにはならないでしょう。

啓示というものは、それまでの考え方とは違う世界に啓かれることですから、それまでの考え方を捨てることです。そのために、イエスさまは「休ませてあげよう」とおっしゃる。休むことで、啓示される世界があるのです。働くだけの生活は考える暇もない生活。その生活に休みが与えられると、心に余裕ができて、それまでの自分を振り返ることも起こってくる。そうして、考える世界に入って行くのです。

わたしたちは休んでいると、他の人に後れを取ると思ってしまう。しかし、休むことは、それまで当たり前だと思い、何も考えずに行ってきたことに対して疑問の芽が出てくるようになる時間なのです。この疑問を抱くことが学びの始まりでしょう。休んだ後は、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。」とイエスさまはおっしゃる。「柔和で謙遜な者」ということは、幼子のように素直にすべてを受け入れる者ということです。そのような存在であるイエスさまの軛を「素直に負いなさい。そして、学びなさい。」とおっしゃったのです。

「素直に負う」のであれば、疑問に思わず、言われたままに負うのではないかと思ってしまいますね。「柔和」という言葉は、「素直」という意味です。「謙遜」という言葉は、「低くされている」という意味です。「素直で、低くされている」お方がイエスさまだとおっしゃっています。このイエスさまのお姿は、神さまの言葉、神さまのご意志を素直に受け入れ、自らを低くして学ぶ姿勢を持っておられるということです。そのようなお方から学ぶとすれば、どのように学ぶでしょうか。神さまの言葉をありのままに受け入れ、この世との違いに目を向けていくことになるのではないでしょうか。それは、ベツサイダ、コラジン、カファルナウムとは反対の姿、反対の生き方です。神さまの言葉は、この世の在り方とは違うのです。この世の在り方に疑問を持って良い。イエスさまから学ぶことは、この世から捨てられたお方が救い主であるという十字架の出来事から学ぶことでしょう。そうであれば、この世の在り方に素直に疑問を持つこと。素直に問いを持つこと。その姿は、神さまの前に低くされた学ぶ姿勢なのです。そのようなイエスさまから学ぶ人になりなさい。そうすれば、魂に安らぎがあるとイエスさまはおっしゃっているのです。

イエスさまが啓示された幼子について語っておられるのも、幼子は自然体だということです。啓示として与えられるものを「これまでこうしてきたから」というこの世の知恵で受け入れないのではなく、啓示された問いに真摯に向き合うのが幼子です。この啓示が起こるのは、わたしたちが休んでいるときです。啓示によって、わたしたちは今までの価値観から解き放たれ、新しいいのちを生きるようにされていきます。それが問いを与えられる生き方、問いに促される生き方です。

わたしたちに与えられている日々のさまざまな事柄を、神さまがどうして与えてくださったのかと考え生きることから始めてみれば良いのです。そうすることで、その日一日が神さまの賜物としてわたしのものとなっていきます。「空の鳥を見なさい。」、「野の花を見なさい。」とイエスさまがおっしゃる。明日のことを思い悩む必要はない。ただ、目の前の世界を素直に見てみる。それが、神さまによって啓示された世界を生きることです。

この啓示はイエスさまの十字架によって起こります。これまでと同じように生きるのではなく、これまでの在り方が真実な在り方なのか、と問う生き方。それこそが、イエスさまの軛を負う生き方です。その魂には何ものにも縛られない自由があります。自分の十字架を取って、イエスさまに従うこと。それがイエスさまの軛を負い、イエスさまに学ぶことです。自分が負うべき十字架、軛は、わたしに生きることを考えさせるものです。イエスさまの軛は、新しい世界の啓示。そこにこそ魂の安らぎがある。新しい世界の中で、問いながら生きていくあなたが神さまに造られたあなた自身です。神さまとの対話の中で、あなた自身が活き活きと生きることになる。このような世界があなたに啓かれています。あなたの魂が、イエスさまの軛の中で安らぐ魂でありますように。イエスさまの軛を負う魂の自由はあなたの前にあるのです。

Comments are closed.