2026年7月26日(聖霊降臨後第9主日)
マタイによる福音書13章31節-33節、44節-52節
今日もイエスさまはいくつものたとえを語っておられます。「からし種」と「パン種」、「畑の宝」と「高価な真珠」そして「魚獲りの網」。それぞれに天の国のたとえと言われています。「からし種」と「パン種」のたとえでは、見えないけれども絶大な働きをする「種」の話。畑に隠されている宝も高価な真珠も隠れているものの発見の喜びを語っています。そして、最後の網のたとえでは、網に入っているものを選り分ける話。それらを総合してイエスさまはこうおっしゃる。「天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」と。この言葉が何を語っているのか良くは分かりません。新しいものと古いものを取り出してどうするのかは述べられていないからです。取り出すだけだということであれば、だから何なのだろう、と思える。新しいものと古いものが表しているのは、すべてのものということでしょう。すべてのものを倉から取り出すということが、天の国のことを学んだ学者と同じだと言われています。天の国のことを学ぶことによって、すべてのものを取り出すということは、すべてのものを自分だけのものにしないことが学んだ結果であるということのようにも思えてきます。
「からし種」と「パン種」のたとえは、隠れている種が働いて、それまでのものを大きくすること。そして、隠れているものがまったく別のもののようになることを語っています。天の国は必ず現れるけれども、それまでのものとは違う世界になるということでしょう。
「畑の宝」も「高価な真珠」も「持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」と言われているように、自分の財産すべてを売り払うことに至るわけですから、天の国を見出したならば、自分のものを手放すことになるということのようです。必ず現れるそれまでと違う世界。自分のものを手放すことになる天の国。こうして見ると、天の国は必ず現れて、わたしの世界、わたしの生き方を変えるものだということです。
最後の言葉の中で「取り出す」と訳されている言葉は「投げ出す」という言葉です。エクバッローというギリシア語です。「取り出す」と「投げ出す」では意味が違います。「取り出す」ということは、今まで貯め込んでいたものを「取り出して」どうするのかは語られていません。一方、網のたとえで「悪いものは投げ捨てる」と訳されている言葉は、同じ「投げ出す」という言葉です。ということであれば、それまで良いもの、宝物として貯め込んでいたものを投げ出す話になります。自分が貯め込む必要はないと「投げ出す」ということでしょう。そうであれば、倉に納める必要がないと分かることが「天の国について学んだ学者」が行き着くところだと、イエスさまはおっしゃっていることになります。
自分が貯め込んでいたものは、自分にとって良いと思えるものでしょう。その良いと思うわたしの判断は、わたしのためにある。わたしに良いことをくれるものを貯め込むからです。それらを「投げ出す」のであれば、投げ出されたものは貯め込むだけの価値がないということになります。この言葉は、全財産を売り払うこととつながっているように思えます。そうであれば、自分の持っているものを投げ出すことは、自分の持っているもの以上の価値があるものに目が開かれた結果だということになります。天の国のことを学ぶことで、自分の価値判断を捨てることになる。そして、まったく違う価値観の中に生きることになる。そう考えてみれば、天の国は自分が価値があると考えていることを超えた価値を持っているということです。それは、まったく次元の違う価値です。
「パン種のたとえ」や「からし種のたとえ」が語っているのは、必ず現れるものですが、現れるものはそれまでの姿とは違うものになることを語っています。大きさや機能や空間さえも違うのです。しかも、普通の出来事の中に隠れているのですから、見る目が開かれなければ認めることができない。そうであれば、天の国はわたしたちの目を新しい世界を見るように開くものだということです。新しい世界に開かれることが天の国に入ること。そうして、新しいものと古いものすべてを倉の外に投げ出すことになる。
ただし、「世の終わりにもそうなる。」と言われています。「天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」と最後に言われていますので、やはり最後の審判では選り分けられて、炉の中に投げ入れられる人たちがあるということです。その人たちは歯ぎしりすると言われていますので、自分の思うように行かず、計画が壊れてしまって、歯ぎしりすることになるということでしょう。この言葉を聞くと、「そうならないようにしなければ」と誰もが思うでしょう。しかし、「そうならないようにする」ことができるのでしょうか。
普段の生活において、自分の考える良いものを貯め込むことから離れることができるのでしょうか。できるとすれば、その人は天の国に入っているのです。「そうならないようにする」ことで、天の国に入ることはできないのです。むしろ、天の国はすでにあると認めて、目の前の世界を生きることです。「思い悩むな」とおっしゃる言葉と同じでしょう。天の国はわたしの周りにある。
天の国は、わたしの現実のどこにでもある世界です。わたしが天の国に入るのではなく、すでに入れられていることを知ることが、天の国のことを学ぶことです。このような天の国は、イエスさまが来られるまでは、誰にも知らされてはいませんでした。イエスさまが来てくださって、わたしたちの現実のただ中で働いている天の国を教えてくださった。開かれていない目、自分の欲望に曇った目には見えない天の国を教えてくださった。隠れている天の国は、わたしが考える天の国とは違う国。わたしたちの世界が天の国に変わっていくのではないのです。すでにわたしたちの間に働いている。その天の国のことを学べば、貯め込んでいたものすべてを投げ出すことになる。今まで見ていた世界が別の世界に見えてくる。それが天の国だとイエスさまは教えてくださっている。
特別な世界を求めることなく、目の前の世界の中に天の国を発見していく旅。それがわたしたちが生きるべき人生ではないでしょうか。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(マタイ7:7)とおっしゃるイエスさまの言葉が語っているのも、この世界を見ることです。
自然の働きを神さまの働きと見る。普通に生きていると思っているわたしたちの中に、わたしたちの間に神さまが働いていると知る。隠れている神さまの働きがあるのだと探す。普通だと思っていることを、どうしてなのかと考えてみる。探すことによって、普通の世界が違って見えてくる。分かっていると思っていることを、本当に分かっているのかと、自分に問いかけてみる。そのとき、わたしが何も見ていなかったことが分かってくる。
使徒パウロも言っています。「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。」(ローマ1:20)と。しかし、人間は知ろうとしなかった。それは、わたしたち人間の欲望が邪魔をしていた結果であると、パウロは語っています。
天の国を見つける人は、欲望を離れる人でしょう。天の国を見つける過程において、欲望に支配されない人になっていく。神さまの方を向いて歩く。そのように生きること、方向転換は、人間からは起こらない。ただ神さまから起こる。あなたが目の前にある神さまの世界を見ることができるようにと語りかけてくださるイエスさまの言葉が、あなたに天の国を開いて見せてくださる。
しかし、その天の国は、この世の見えている世界の中に隠れている天の国です。隠れているのですが、天の国として働いている。その働きを見ても、真実の天の国を見ることができない人は、普通の世界としてしか見ないのです。自分が上手くやっていけば思うようになっていくだろうと考える。隠れている天の国は、わたしが上手くやっていくような国ではありません。神さまの起こしおられる出来事に神さまのご意志を見て、わたしが従って行く国なのです。自分が思い描く世界ではなく、イエスさまが見せてくださる世界。わたしが思い描く世界は、わたしが思い描くことができる程度の狭い世界であり、わたしの個人的な願望の世界です。天の国は、神さまのご意志が働いている世界です。わたしの世界を越えている広い世界です。この違いを認めるとき、わたしたちは天の国を素直に受け入れ、目の前の世界を天の国として生きていくことができるでしょう。そのような世界を見る目が開かれ、その世界に生かされている一人ひとりとされていく信仰が広がって行きますように。わたしの前にある隠れている天の国を生きていく者でありますように。
