説教

「耳が働く人」

末竹十大 牧師

2026年7月12日(聖霊降臨後第7主日)
マタイによる福音書13章1節-9節、18節-23節

今日、イエスさまは家を出て、湖のそばに座っていたと記されています。群衆が集まってきたので、今度は舟に乗って、座ったと述べられています。イエスさまは「座っている」。これは学んでいることを表しています。イエスさまは、この世界を神さまがお造りになり、神さまの言葉が語られている世界だと見ておられる。その世界の言葉、神さまの言葉を学んでいるのが「座っている」イエスさまです。

イエスさまが家から「出て行った」と最初に言われて、種蒔きのたとえでは種蒔き人が「出て行った」とおっしゃっています。イエスさまも種蒔きに出て行ったのでしょう。そして、座って、学んでいる。群衆が岸辺に立っている姿を見て、学んで、考えている。そこから、今日のたとえが語られています。

18節以降では、この種が「御国の言葉」と言われていますので、イエスさまが語っておられる言葉は「御国の言葉」であり、たとえに出てくる「種」なのです。岸辺の群衆は「地」です。そうすると、岸辺の群衆が四つの地に分けられるということになります。

「道」、「石地」、「茨」、「良き地」の四つに分けられている。岸辺から始まって、一番後ろが「良き地」でしょうか。なぜなら、一番後ろにいると、声は最後に届くからです。また、一番後ろは声しか聞こえないからです。一番前は、イエスさまの近くにいるということに満足しているかも知れません。それで、イエスさまの話すお姿に見とれて何も聞いていない。あるいは、湖が気になるかも知れません。二番目は、少しは聞くけれど、何とか見ようと体を動かす。三番目は、前の人が動くので気になって、聞くことがおろそかになる。四番目は、見えないことは分かっているので、とにかく言葉に耳を傾ける。このように考えてみると、イエスさまは群衆の姿を見て、神さまの言葉を聞いているのです。そこに種蒔きの姿を重ねている。そして、それぞれに置かれた場所がそのようであることを生きてしまう。こう考えてみると、イエスさまの言葉がどこに届くのかを語っているのが、イエスさまのたとえだと思えます。

「耳を持っている人は聞きなさい」とイエスさまがおっしゃるのも、言葉を聞くことを求めている言葉でしょう。「ひと目イエスさまを見よう」ということで集まってきた人ではなく、イエスさまの言葉を聞きたいと集まってきた人。その人は、どこにいても耳を傾けることでしょう。しかし、一番後ろにいる方が、邪魔が入らないで良いのかも知れません。聞くためには、目に入ってくるものに心を奪われてはならないということでもあるでしょう。この礼拝堂でも、一番前が岸辺で、一番後ろが良き地というわけではありません。周りが気になる人は、どこにいても同じです。そう考えると、イエスさまからの距離や群衆の中での位置とは関わりなく、それぞれの心の位置がイエスさまのたとえで述べられているのだろうと思えます。

心の位置は、さまざまです。置かれている場所が同じであろうとも、その中でイエスさまとの関係を生きる位置は違うのです。みことばとの関係を生きる位置なのか。周りのことが気になる位置なのか。自分のことしか考えない位置なのか。さまざまにその位置が異なっています。その中で、イエスさまの言葉を、教訓として聞く人もいれば、自らの現実を見せてくださる言葉として聞く人もいます。教訓として聞く人は、「どうしたら天の国に入ることができるのか」を考えてしまうでしょう。自らの現実を見せてもらっていると聞く人は、自らの罪深さを思うでしょう。そこから脱け出すために、みことばに心を向けていこうと、悔い改めることも起こるでしょう。「どうしたら天の国に入ることができるのか」という答えを求めている人は、自分を見ることができない人です。方法だけ手に入れれば良いと考える人は、耳を持っているのに聞いていない。

イエスさまが「耳を持っている人は、聞きなさい。」とおっしゃるのは、持っている耳をいかに働かせているかを問いかけている言葉でしょう。耳がその人の心と結びついている人なのか、耳から音が入っているけれども、心にまで届いていない人なのか。この違いに気づいて、心と耳が結ばれているように生きるようになるか。果たして、どうでしょうか。

イエスさまのたとえは、どうしたら良き地になることができるかは教えてくれていません。ただ、良き地は豊かに実を結ぶだけです。それでも、豊かに実を結ぶ良き地は、「御言葉を聞いて悟る人」と23節で言われています。この「悟る」と訳されている言葉は「共に運ぶ」という言葉です。それは「一緒にまとめる」、「総合する」という意味です。それまで得た知識と今聞いている言葉とを総合して、一つにまとめることです。ですから、自分が知っていることと、今聞かされていることが一緒になって、新しい知識の世界が広げられると言えます。

新しい知識の世界が広げられるということは、それまで知っていた世界とは違う世界が見えてくるということです。そのように聞く人が「悟る人」だと言われているのです。イエスさまの言葉、神さまの言葉、御国の言葉は、新しい現実を作る言葉なのです。新しい世界の中に、わたしを置いてくださる言葉がイエスさまの言葉です。この世界に入ることが、「悟る」ということです。

そうであれば、イエスさまの言葉は新しい世界の入り口なのです。その入り口を入らない人は、耳が働いていない人。耳が心と結びついていない人。どうしてそうなってしまうのでしょうか。イエスさまがたとえの解説でおっしゃっているように、「御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。」と石地について言われていますが、「自分には根がない」と言われているように、自分の力でみことばを生きようとするときには、すぐにつまずくということです。ということは、自分の力ではなく、みことばがわたしのうちで働いて、みことばを生きるようにしてくださるということでしょう。さらに、「世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。」と言われているように、この世の出来事に翻弄されているために、聞いてもすぐに忘れて、この世を上手く生きることばかりを考えてしまうということです。このような場合、わたしたちはみことばを聞いていても、聞いていないということになるのです。

三つの実らない地は、みことばの種が働くことを邪魔するものがあることを教えてくださっています。それは、自分自身の立っている位置なのです。わたしがどこに立っているのか。神さまの力を信頼しているのか。自分の力を信頼しているのか。人間に振り回されているのか。自分の力に頼り、人間に振り回されている人は、みことばを聞いても、みことばが働くことを信じるところに生きることができないのです。みことばを自分が実現しなければならないと思い込んでいるからです。みことばに力があると信頼できないからです。みことばよりも自分が上手く生きることが優先されるからです。そのような人は、自分の努力でここまで来たと思っているかも知れません。努力すれば、神さまは助けてくださると思っているかも知れません。このような考え方は、信仰とはかけ離れた考え方です。神さまの力は、わたしの努力次第で働くか働かないかに分かれると思っている人です。その人には信仰がないのです。人間の力や自分の力に頼っているからです。信仰を生きていない人は、耳が働いてないのです。耳と心とが結びついていないのです。心が向いている方向が、人間の世界にあるからです。別のところでイエスさまがおっしゃるように「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心がある。」ということです。自分の富が地上の富であるような人の心は、耳と結びつくことはなく、神さまの言葉を受け入れることもありません。

とは言え、耳が働くとしても、皆が同じ結果になるわけではありません。100倍の人、60倍の人、30倍の人がいるのです。それらの結果に左右されることなく、それぞれの生き方を生きるのです。与えられたものを受け取り、生きる。神さまが与えてくださったものを受け取る。神さまの世界を受け入れて生きる人。そのような人こそ、耳が働く人。耳と心が結ばれている人です。

「耳を持っている人は聞きなさい」。誰でも耳を持っていますが、聞く人は聞くし、聞かない人は聞かない。見えるものに翻弄されるわたしではなく、成果に左右されるわたしでもなく、イエスさまの言葉に心が結ばれていくわたしでありますように。語ってくださるイエスさまと一つにされるわたしでありますように。共に祈りましょう。