説教

「目を覚ましている人」

末竹十大 牧師

2026年11月8日(聖霊降臨後第24主日)
マタイによる福音書25章1節-13節

今日のたとえでは、「五人は愚かで、五人は賢かった。」と述べられています。この「愚か」という言葉は「鈍い」という意味です。「賢い」という言葉は「分別のある」、「思慮深い」という意味です。

「鈍い」ということは、鈍感ということですが、何に鈍感なのか分かりますか。自分に鈍感なのです。なぜなら、自分が眠ってしまうことや花婿が遅れた場合にどうなるのかを考えることがなかったからです。眠ってしまわないならば、油が切れかかっていることを早めに察知できたでしょう。しかし、眠ってしまったので、分からなかったのです。そして、買いに行っている間に、花婿が来て、戸が閉められてしまった。「花婿を迎える」ということが彼女たちの役割だったのですから、花婿が婚宴の席についてしまってからでは役割を担うことはできないのです。だから、「あなたがたのことは知らない」と言われてしまうのです。

一方、「思慮深い」乙女たちは、花婿が遅れて、自分が眠ってしまうこともあり得ると考えて、余分の油を用意していた。「鈍い」乙女たちは、そのことにも気づかない。「鈍さ」というものがいかなるものであるかが良く示されていると思います。

人間は「鈍い」人、「思慮深い」人に分かれるものですが、「思慮深い」人は自分を良く知っている人でもあります。それは、自分が目を覚ましていることができないことを知っている人だと言えます。だからこそ、イエスさまは最後におっしゃっているのです。「だから、目を覚ましていなさい。」と。この言葉を生きることができないわたしであることを知っている人が、目を覚ましている人なのです。このような人が「思慮深い」人でしょう。「鈍い人」は自分が鈍いことを知らないのです。「目を覚ましていることができるかどうか」を考えることもないのです。自分は「賢い」と思い込んでいるのかも知れません。「鈍い人」が自分は「賢い」と思い込み、「思慮深い人」は自分が「鈍い」ことを知っているわけです。面白いですね。

「思慮深い人」は、きっと抜けていることがあるに違いないと思って、注意深く準備する人でしょう。準備してもなお、抜けていることがあるに違いないと思っているのです。自分の出番が来る直前までドキドキしているのです。「大丈夫かなあ。」と何度も確認するのです。「鈍い人」は、自分は思慮深いと思い込んでいます。それで、「言われた通りに準備した」と思っています。しかし、役割を命じた人は「予備の油を準備しておいた方が良いですよ。」とまでは教えてくれない。役割が何であるかを教えるだけでしょう。ですから、役割を受けた人が、自分が何を為すべきかを良く考えて、備えるはずなのです。それができない人が「鈍い人」と言われているのです。「鈍い人」は、良く考えることなく、不測の事態に対処できないで、他人に迷惑をかけることになってしまいます。

それなのに、「思慮深い乙女たち」が「鈍い乙女たち」に油を分けてあげることがなかったことを、冷たいと思う人がいるかも知れません。しかし、彼女たちは自分が与えられた役割に忠実だったのです。与えられた役割を全うするためには、分けてあげることはできなかった。分けてあげることで、全員が油がなくなる危険を冒すことになると考えたことでしょう。だからこそ、「分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。」と彼らは応えたのです。それは義しい判断だった。花婿が到着したときに、灯火を整えて、出迎えるという役割を全うすることができた。役割を全うすることが、彼らが為すべきことだからです。ということは、「鈍い乙女たち」は自分の役割が分かっていなかったのです。

「鈍い乙女たち」は自分がいかなる役割を与えられたのかよりも、「わたしたちは選ばれた」と思い上がっていただけでしょう。そして、与えられた役割をどうやって全うするかを自分の中でイメージすることができなかった。自分の役割が何であるかが分からないならば、引き受けたことを全うできないのです。与えられた役割に必要な準備を知っている人に聞いて、準備するということもしなかった。普通ならば、当日までにリハーサルを何度もしたはずなのに、それさえもしなかった。「思慮深い」乙女たちは、五人で毎日確認し合ったかも知れません。これが「目を覚ましている」ことです。だとすれば、「目を覚ましている人」とは自らの役割を全うするために何が必要であるかを「思慮深く」考えている人ということです。さらに、イエスさまが最後におっしゃるように「あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」ということを知っていることでもあるのです。

今日のイエスさまのたとえは、終わりの日のたとえです。終わりの日がいつなのかは、わたしたち人間には分からない。だから、「目を覚ましていなさい」と言われている。ということは、そのときがいつ来ても良いように備えていることだと思えますね。ところが、いつ来るのか分からないことに備え続けることは、わたしたち人間には難しいのです。ですから、備え続けることができないことを知っている必要がある。すぐに役割を忘れてしまうわたしであることを知っている必要がある。知っているならば、その日、そのときが来るまで役割を忘れないようにしていることでしょう。しかし、そんなことができるでしょうか。

何十年も経つうちに、わたしは何のためにキリスト者にされたのか忘れてしまうものです。そして、毎週礼拝に招かれていても、毎週でなくても良いかと考えるようになっていきます。毎週、みことばを聞いて、終わりの日に備える心を新たにする。それが、イエスさまが「目を覚ましていなさい」とおっしゃることでしょう。わたしたちは、毎週みことばを聞くことによって、キリスト者であることを保たれているのです。そのためにも、オンラインでのライブ配信も行なっているのです。毎週の礼拝を守ることができないわたしになることが、眠っているキリスト者になることでもあります。

忘れてしまうわたし。この世に流されてしまうわたし。役割を忘れてしまうわたし。でも、わたしたちは本当に役割があるのでしょうか。終わりの日をただ待っているだけだと思う人もいるでしょう。わたしたちは、どのような役割を与えられているのでしょうか。それは、キリストをお迎えする役割です。そして、その役割を忘れないように目を覚まし合う。互いに終わりの日に向けて備えているように目を覚ましていようと励まし合う。それが目を覚ましていることでしょう。

終わりの日に備えるということを聞くと、「そんないつ来るかも分からない日のために備えるなんて馬鹿馬鹿しい。」と思う人もいるでしょう。そう思うならば、その人にとってはそうなのです。確かにいつ来るのかは分かりません。それでも、終わりの日は必ず来ます。そのときに、備えていることを忘れてしまっているとしたら、天の国に入ることができないのです。「鈍い乙女たち」のように、「御主人様、御主人様、開けてください」と叫んでも「わたしはお前たちを知らない」と言われてしまうのです。この言葉が語っているのは、主人との交流がなかったということです。だとすれば、このたとえは終末のたとえですから、終末までの時間の中で、主人である神さまと祈りの交流をしていた人たち。その人たちが目を覚ましている人たちなだということです。みなさんは、毎日神さまとお話ししていますか。「神さま、これから行わなければならないことがあります。あなたが与えてくださったこととして、引き受けていきますので、どうかわたしを支えてください。」、「今から車を運転しますので、落ち着いて運転できますように、わたしの心を治めてください。」というようにいつも神さまとお話ししているでしょうか。

終わりの日に向けて備えるということは、祈りを持って日々を生きて行くことです。自分がイエスさまに出会い、召されたキリスト者であることを保つこと。そして、隣人と共に、終わりの日を迎える備えを続けて行くこと。毎週の礼拝を通して忘れないように思い起こしていくことが大事なのです。

イエスさまのたとえが語っているのは、その日その時を知らないということを知っていることがあなたを守るということです。鈍い人間であることを知っていることがあなたを守るということです。それゆえ、思い上がってはならない。自分に鈍くならないために、イエスさまは今日、わたしたちに語りかけてくださっています。「目を覚ましていなさい」という言葉には、イエスさまがわたしたちに話し続けてくださる心が宿っているのです。この言葉を常に聞き続けることで、新たに自分を見直していく歩みが可能になります。

「あなたがたのことは知らない。」という言葉にはイエスさまの心が宿っています。厳しい言葉、冷たい言葉のように思えますが、実はわたしたちが失われないようにと語られる愛の言葉なのです。この愛の言葉は、イエスさまの十字架に極まっています。鈍いわたしのために、十字架を引き受けてくださったイエスさまが語っておられるのです。外に投げ出されるわたしの代わりに、苦難を引き受けてくださったイエスさまが語っておられるのです。このわたしが終わりの日に主の御前に立つために、イエスさまの言葉を聞き続け、祈り続けることができますように共に祈りましょう。