「主よ、来たりませ」

2011年11月26日 末竹十大牧師
ケリーベル・コンサート

「主よ、来たりませ」

イザヤ書11章1節~10節

本日は、皆様、ようこそお出でくださいました。チャリティにご賛同くださいましたことを感謝いたします。ケリーベルクワイアの音色は美しく、心に染み入る思いがいたします。心を清くしてくれるようです。

今、読みました聖書は、紀元前730年以降に活躍したイスラエルの預言者イザヤという人の言葉です。預言者というのは、神の言葉を聞いて、人々に神の意志を伝える働きをしました。従って、人々が神の意志に反して、自分のことばかりを考え、人を押しのけ、弱い者を虐げている姿を批判する言葉が多く語られています。当時も今と変わらず、為政者は民のことを考えず、自分の保身に走っていたのです。聖書を読むと、わたしたちと同じような世界に生きていた人々を知ることができます。二千七百年前も今も人間は何も変わっていないのです。

誰もが自分のことしか考えない。誰もが自分の利益を追求し、他者が被害にあっても、それはその人の責任、あるいは誰かの所為にして責任転嫁をし、社会は混乱していきます。わたしたち自身も同じ人間です。遠い過去の話を聞けば、なんてひどい奴らなのだと思います。今でも、為政者たちの政治の有様を見るにつけ、自分のことしか考えていないと批判したくなります。しかし、わたしたち自身も同じ人間なのです。同じように、自分のことしか考えていない。自分の利益しか求めない。他者がそのために犠牲になっても気にしない。そのような人間であることを、聖書を読むたびに改めて思わされます。

3月11日に起こった災害も、報道などで見聞きすると、政治家が利益誘導した結果、招いてしまった災害だなどと思えてきます。自分なら、そんなことはしないと誰もが思うのです。しかし、わたしたちも同じ人間。自分のことしか考えていないのです。人のことは、二の次。三の次。一番最後です。まず、自分の生活を考えます。

災害ボランティアとして仕事を休んで出かけておられる方々のことを耳にするたびに、素晴らしい人たちだと思いますが、わたしには家庭があるし、仕事があると思うのです。わたしたちも被災地で生活する人たちのことを四六時中考え、何かをしているわけにはいきません。結局、人間は共に生きると言いながら、自分の生活が守られてから、共に生きるという順番で考えているのです。

それが人間です。わたしの世界を守ろうとする人間なのです。そのような世界にあって、二千七百年前の預言者イザヤは、平和の王の誕生を預言しました。それは、イエス・キリストを預言したのだと言われます。

エッサイの株から萌え出る芽イエス・キリスト。この芽から咲いた花を、バラだとする解釈もあり、クリスマス・ツリーに飾る習慣もあります。当教会のツリーにも今日は特別にバラを飾っています。四種類の飾りをいたしますが、今日は特別にバラを飾りました。希望を表しているからです。

エッサイの切り株に残った根から、一つの芽が萌え出る。それが平和の王であるとイザヤは語りました。預言者が聞いた神の言葉は、一つのイメージでした。エッサイのバラというイメージ。このイメージを預言者は言葉にしました。すべてのものが害することのない平和な世界が来たると預言したのです。

預言されたイエス・キリストの誕生は、クリスマス。明日から始まる四週間の期間を過ごした後、クリスマスを迎えるのです。イエス・キリストが何故誕生するのか。それは、わたしたち罪深い、自分勝手な人間が、互いに支え合い、守り合うような、平和に暮らす世界を作るためです。その王として来たる主イエスをお迎えするのが、クリスマス前の四週間、アドベントと言われる期間なのです。

しかし、このお方は、わたしたちの期待通りには来られませんでした。人々が従う王ではなく、人々から十字架に付けられる王として来たのです。自分勝手な思いで、自分が期待するように来てくれる王を待っていた人々は、イエス・キリストを正しく見ることができませんでした。そして、十字架に付けてしまったのです。ところが、このお方は、エッサイの切り株の預言どおり、切られてしまい希望のなくなったところから、つまり十字架の死から復活したのです。エッサイの切り株から芽が出たのです。そして、わたしたちキリスト者は、このお方を主と信じ、祈っています。「マラナ・タ」主よ、来たりませ、と。この祈りは、多くの苦しみにあった人たちによって、待ち望まれた神の国の到来を祈る祈りです。再び来られて、この世界を新しくしてくださる主を待ち望む祈りです。マラナ・タ。主よ、来たりませ、と。

わたしたちは、東日本大震災において、多くの犠牲者を出し、多くの子どもたちのいのちが奪われたことを覚えています。この人々を犠牲にしてしまったわたしたちの社会の罪を忘れてはならないのです。残された人たちは、普通の生活に戻るまでには、これから何年も苦労して行かなければなりません。被害に遭わなかったわたしたちが忘れる頃、彼らはやっと普通の生活を手に入れるでしょう。しかし、元の生活に戻るわけではありません。新たなところで、新たな生活を始める方々が多くいるのです。少しずつ、以前の漁業が再開されたりするニュースを聞きますが、多くの方々は新しいところでの生活を余儀なくされています。

仮設住宅での生活も困難です。冬の寒さに備えなければなりません。断熱材が入っていないからです。苦しい生活を強いられている方々を、わたしたちも共に支えて行きたいと思います。少しずつでも、献金を送って、再起していくことを祈りたいと思います。

わたしたち自身が、生き方を変えていく勇気を持たなければならないのです。しかし、人間は変えることができないものです。それだけ愚かで、罪深く、自分を変えることができない存在なのです。このようなわたしたちが、「主よ、来たりませ」と祈っても、来たときには、イエス・キリストを十字架に架けたように、同じ過ちを犯してしまうでしょう。現実に変わることを嫌がるのが、わたしたち自身なのですから。

そのようなわたしたちの思いとは違うところで、神は働いておられて、イエス・キリストをこの世界に遣わしてくださいます。わたしたちの期待を覆すために、イエス・キリストは来るのです。わたしたちの自分勝手な願いを覆すために。変わり得ないわたしたちを、神の意志に従って生きるように変えるために。そこにわたしたちの希望があります。わたしたち自身では変わり得ないものを変えてくださるお方が来るのです。それが、クリスマスを迎えるということです。

そして、被災された方々の許にも、クリスマスが来ますようにと祈ります。マラナ・タ。主よ、来たりませ、と。

本日は、ケリーベルクワイアの賛同を得まして、このようなコンサートを開くことができましたことを、神に感謝いたします。

また、みなさんが賛同してくださって、お集まりくださったことを感謝いたします。

これから迎えるクリスマスを祈りをもってお過ごしください。そして、被災された方々だけではなく、この世界で苦しんでいる方々と共に、生きていく世界が来ますように、祈り、働き、一緒に生きていきましょう。

エッサイのバラのような希望を仰いで。

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