2026年8月20日(平和主日旧約版)
ミカ書4章1節-5節
「終わりの日に、主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。」と預言者ミカは語っています。ミカ書の大半は、裁きの預言です。その中で、この4章全体は、平和の預言と言われる預言ですが、その他の章は裁きの預言です。どうして、この4章のみで平和の預言が語られているのでしょうか。しかも、3章12節では「お前たちのゆえに、シオンは耕されて畑となり、エルサレムは石塚に変わり、神殿の山は木の生い茂る聖なる高台となる。」と言われています。この3章の破滅の預言の後に、4章の平和の預言が語られる。この平和は「終わりの日に」と始まっています。それは終末の預言です。つまり、すべてのことが終焉を迎える「終わりの日に」起こることが預言されているのです。ミカが預言する平和は、終わりの日に起こることであって、そこに向かってどのように生きていくのかということが問われているのです。
わたしたちは平和を求めます。そのために、争いを起こします。平和のために戦うのだと考えます。ところが、ミカが預言しているのは、神であるヤーウェが起こす平和です。人間が平和を求めて戦えば、「神殿は破壊されて石塚となり、エルサレムは木が生い茂るところとなる。」というわけです。平和の預言が語っているのは、神ヤーウェがご自身の力で平和を打ち立てるということです。しかも、エルサレムに帰ってくるのは「残りの民」と7節では言われています。すべての民ではないのです。
この「残りの民」という存在は、イザヤも「残りの者」という預言で語っています。残りの民は、苦難を経験し、その中で残った者たちのことです。しかも、神に向かって歩む民として残った者のことです。ですから、イスラエルが救われるということではなく、「残りの民」が集められるという預言なのです。10節では「今、お前は町を出て、野に宿らねばならない。だが、バビロンにたどりつけば、そこで救われる。その地で、主がお前を敵の手から贖われる。」と言われています。バビロンに捕囚として囚われていく民の中で、バビロンの地で贖われる「残りの民」がいるということです。その民は、苦難を経験しながらも、神ヤーウェに顔を向けて歩み続けた人たちでしょう。そのような「残りの民」が存在することを預言しているのです。それは、神ヤーウェが「残りの民」を残すということです。その「残りの民」が平和のための存在として帰ってくることを預言しているのです。
「残りの民」は少ないことでしょう。しかし、「残りの民」が存在する限り、神ヤーウェの働きを受け取る人たちが残っているのです。その人たちを通して、平和が打ち立てられる。その人たちは、神ヤーウェの裁きの中に留まった人たちなのです。逃げた人たちは、神ヤーウェのうちに生きることはできない。苦難を引き受け、自らの罪を認め、神ヤーウェに信頼して生きる民は少ない。小さな民として残る。それゆえに、5章1節ではこう預言される。「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」と。この言葉は、イエス・キリストがお生まれになったベツレヘムについての預言です。ユダの氏族の中でいと小さきものであるベツレヘムからイスラエルを治める者が出てくる。それがイエス・キリストであると信じたのが、新約の民でした。クリスマスシーズンに朗読されるミカ書5章の言葉は、バビロン捕囚を経験している民に向かって預言された神の言葉なのです。イエス・キリストがイスラエルの牧者となる。この預言に基づいて、平和が宣言されているとも言えます。なぜなら、平和は人間の事柄ではなく、神の事柄だからです。
人間は平和を作り出すことができない。人間は争いしか生み出さない。自分の世界を広げることにしか目が向かない。人間にしか目が向かない。神に向かって歩むことはない。これが、旧約聖書が語っていることです。そして、預言者たちが告発したイスラエルの現実です。この現実は、現代にも当てはまります。現代のイスラエルは、ミカが語る「指導者たち」のようです。争いを好み、争うことで自分を誇示する。争いによって、敵を打ち散らし、平和を作り出せると思い込んでいる。しかし、争いから平和は生まれない。人間から平和は生まれない。神ヤーウェによって平和が生まれる。この言葉をわたしたちは心して聞かなければなりません。
その平和の在り方は5節でこう述べられています。「どの民もおのおの、自分の神の名によって歩む。我々は、とこしえに、我らの神、主の御名によって歩む。」と。つまり、イスラエル以外の民が自分の神の名によって歩むことを認めているのです。そして、自分たちはイスラエルの神ヤーウェの名によって歩むのだと、預言されている。この言葉は、共に生きる論理です。他の民の信仰をそのままに認めつつ、自分たちが立つべきところを確認しているのです。これが平和であるというわけです。
お金を神として生きている者が、神ヤーウェを神として生きることはないのです。アッラーを神として生きている民が、ヤーウェを神とすることもないのです。それで良いではないかとヤーウェは言う。これは、ヤーウェ以外の神を認めたというよりも、むしろそのように生きる民を認めたということです。そして、真実にヤーウェに従う民を求めた神の言葉なのです。
イスラエルがバビロンに滅ぼされることは、イスラエルの神ヤーウェがバビロンの神マルドゥクに負けたということになると考えられていた当時の世界にあって、預言者たちは違うように考えました。ヤーウェがマルドゥクに負けたのではなくて、イスラエルがヤーウェに従わなかった罪の結果が、バビロンに負けることに現れていると考えたのです。つまり、神ヤーウェはバビロンを使って、イスラエルの罪を糾弾しているということです。そして、バビロンさえも神ヤーウェの手の中にあって、用いられているという信仰なのです。
この世界は神ヤーウェが支配しておられる。その世界の中で、神ヤーウェに従わなかったイスラエルはバビロンに滅ぼされる。その苦難を引き受けて生きる「残りの民」が残る。これは、イザヤが預言した「エッサイの切り株」である「聖なる種子」という預言と呼応しています。
預言者ミカは、神ヤーウェの主体の中で生かされていることを生きる民が残されるのだと預言したのです。この預言が成就するのは「終わりの日」であると。つまり、最終的にヤーウェがこの世界を平和な世界にしてくださるということです。この信仰を生きるように勧める言葉が、ミカ書4章の平和の預言なのです。ですから、平和は争いがない状態というよりも、神に信頼している状態が平和なのです。神の世界を信じ、神に従う民が残される。その世界は必然的に平和なのです。なぜなら、神ヤーウェご自身が平和を作るお方だからです。平和を生きるお方だからです。
神の平和は、ヘブライ語ではシャロームです。欠けのない状態を表す言葉だと言われます。欠けのない状態は、神への信頼に欠けることのない状態のことです。この神の平和シャロームに入っているならば、すべてのことが必要なだけ、必要な人に与えられる。その平和を生きる民が「残りの民」であるならば、わたしたち人間が作り出すことができない平和をヤーウェが与えてくださるということです。この平和シャロームを与える神に信頼していることこそ、わたしたちの信仰です。
旧約聖書はこの信仰に向かって開かれています。旧約聖書は閉じられていません。問いとして開かれたままのなのです。新約聖書は、この問いへの応答です。それはまた、一人ひとりがいかに問いに応えて生きるかを問うているものでもあります。神に信頼するのか、人間の力に頼るのか。この相反する生き方のどちらでも選択可能なのです。「我々は、とこしえに、我らの神、主の御名によって歩む。」と告白する民が起こされることは確かなことです。その中に、わたしが入っているのかどうかが、わたしたち一人ひとりに問われている。主の平和の中で生きる一人ひとりでありますように。
