説教

「沈むことの恵み」

末竹十大 牧師

2026年8月9日(聖霊降臨後第11主日)
マタイによる福音書14章22節-33節

「強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けてください』と叫んだ。」と記されています。ペトロは、沈み始めたところで、主に救いを求めたのです。沈みかけなければ、主に救いを求めることはなかったでしょう。無事に主の許に辿り着いていたならば、自分の信仰の確かさを誇ることにもなったでしょう。しかし、そうならなかった。これこそが恵みです。

イエスさまの海上歩行の出来事は、マタイ、マルコ、ヨハネの各福音書が伝えています。不思議なことに、ルカ福音書には記されていません。この海上歩行の出来事は、マタイ、マルコ、ヨハネでは五千人の給食の後に記されていますが、ルカによる福音書にも五千人の給食記事があるにも関わらず、海上歩行の記事はないのです。どうしてなのかは分かりませんが、マタイ、マルコ、ヨハネでは給食の出来事と海上歩行の出来事は密接に結びついているようです。五つのパンと二匹の魚だけで、五千人を満腹にさせた出来事によって、弟子たちは自分たちがこの不思議な出来事に参与したことに満足していたことだと思います。そして、イエスさまは、弟子たちだけを先に舟に乗せて向こう岸に行かせるのです。一人祈りを終えたイエスさまは、海の上を歩いて、行き悩んでいる舟の弟子たちのところへと行かれました。マルコとヨハネは、イエスさまを舟に迎え入れると、風は静まり、向こう岸に着いたと述べています。ところが、マタイだけが、ペトロの海上歩行の記事を載せているのです。どうしてなのでしょうか。

最後にマタイはこう記しています。「舟の中にいた人たちは、『本当に、あなたは神の子です』と言ってイエスを拝んだ。」と。イエスさまが神の子であること、人間はいずれ沈むことを伝えるためでしょう。イエスさまの不思議な海上歩行は、イエスさまが神の子であることを証ししている出来事です。マルコもヨハネもそれだけで良かった。ところがマタイはペトロの海上歩行とその失敗を記して、イエスさまが真実に神の子であることを語ろうとしたのでしょう。こう考えてみれば、五千人の給食において弟子たちがイエスさまの弟子である誇りに満たされていたように思えます。その弟子たちの自負を打ち砕くのが、イエスさまの海上歩行とペトロの失敗の出来事でしょう。

イエスさまはペトロに対してこう言っています。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と。この言葉は「小さい信仰の者。何へとあなたは疑ったのか。」という意味です。ペトロが自負しようとした信仰は「小さい信仰」であるとイエスさまはおっしゃっている。この「小さい信仰」はペトロ自身が持っていると思っていた信仰のことです。小さい信仰は、一瞬不思議な業を行うように見えて、すぐに消えうせてしまうということです。わたしたちが、一瞬「わたしは信仰がある」と確認したとき、すぐに消えうせるのです。それはあの種蒔きのたとえで語られている「石地に落ちた種」や「茨の中に落ちた種」で述べられていたことと同じです。信仰は確認するものではないからです。ペトロは、信仰を確認したかった。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」とペトロは言っています。この言葉は、イエスさまを信じているように思える言葉ですが、実は自分の信仰を試しているような言葉なのです。なぜなら、ペトロが水の上を歩いて、イエスさまの許に辿り着くならば、命じてくださったお方への自分の信仰が確認できるからです。さらに言えば、イエスさまであるならば、わたしに命じて水の上を歩かせることができると信じる自分がいるわけです。その自分に対して、あなたがイエスさまであることを確認させるために、水の上を歩かせてくださいと、ペトロは求めたことになります。つまり、イエスさまに対して、ご自分であることをわたしに確認させてくださいと求めたわけです。この愚かなペトロの確認要請をイエスさまは、咎めることなく、受け入れています。イエスさまは、ペトロが真実の信仰に目覚めるために、このときを用いたのでしょう。

わたしたちの信仰は、自分が不思議なことができることで確認できるものではないのです。いえ、信仰は確認するようなものではないのです。むしろ、ただ信じることこそが信仰です。確認しようとした時点で、信仰から外れてしまっているのです。確認する信仰のことを、ルターは「獲得された信仰」と呼んでいます。反対に、確認などしない信仰のことを「注入された信仰」と呼んでいます。この違いは、神さまが主体である信仰と、自分の主体による信仰の違いです。

しかし、「あなたの信仰があなたを救った」という言葉をイエスさまは語ったことがあります。長血の女の癒しなどの際に、そうおっしゃっています。しかし、その信仰が女性の信仰であるならば、女性が自分を「救った」ということになります。「救う」ということは、救われる対象と救う主体とは別物であるわけです。ですから、「あなたの信仰」が「あなた」を救うのであれば、信仰など必要ないことになります。自分で信じれば自分を救うことができる。ということであれば、自己完結してしまうのです。そのようなものが信仰であれば、思い込めば自分で癒やせることになります。これを信仰と言うでしょうか。救いは、わたしの外からやってくるのです。

ペトロがイエスさまに求めたのは、このような自己完結する信仰の確証だったと言えます。この愚かなペトロの求めをそのまま受け入れて、イエスさまは「来なさい」とおっしゃるのです。そして、ペトロを救った後、「小さい信仰の者。何へとあなたは疑ったのか。」とおっしゃった。このイエスさまの言葉が語っているのは、「あなたは自分の信仰を試すことで、与えられている信仰を疑ったのだ。」ということでしょう。だからこそ、「小さい信仰の者」と言うのです。大きい信仰の者は、自分の信仰を試すことはない。ただ信じているだけなのです。その姿は、この後のカナン人の女の信仰として述べられています。大きい信仰の者はすべてを神の御手に委ねています。自分で信仰を確認することはない。

さて、このペトロの失敗を記したマタイは、信仰とはどのようなものであるかを述べるために、この出来事を記録したのでしょう。そして、ペトロは失敗することによって、真実の信仰へと導かれたのです。その真実の信仰とは「主よ、わたしを救ってください。」という信仰です。ペトロは、沈み始めた自分を確認して、「主よ、救ってください」と叫んだのです。これが信仰です。このとき、ペトロは、信仰を確認してはいません。ただ、「わたしを救ってください」と叫んだだけなのです。それこそが「信仰」の働きです。

ペトロは、イエスさまが「来なさい」とおっしゃる言葉に従って、歩み始めた。そのときには確認作業は行われていませんでした。しかし、「強い風に気がついて怖くなり」、我に返って、確認作業に入ってしまった。それで、自分の信仰の源泉であるイエスさまから目を離してしまったのです。イエスさまから目を離さなければ、イエスさまとペトロは一つです。イエスさまの主体の中に自分を投げ入れているのです。ところが、目を離すと、イエスさまは風と比較される対象になる。そうして、ペトロ自身は、イエスさまと風とを比較する主体に変わってしまったのです。この主体に変わったペトロが沈み始めるのは当然なのです。イエスさまが主体であるところに生きるのが信仰なのに、自分が主体になった。イエスさまが主体である信仰の世界。この世界を保持しておられるのは、神の子イエス・キリストです。ですから、ただ神の子の世界に入れられている自分を生きて行けば良い。イエスさまを信頼している世界に生きること、それが信仰なのです。

わたしたちが信仰をもって生きるというのは、わたしが主体として信じている信仰ではなく、イエスさまがわたしの主体として生きてくださっている世界に自分を投げ入れることなのです。ペトロは、この世界を垣間見た。しかし、自分が主体の世界に戻ってしまい、沈み始めた。そして、ようやく救い給うお方に救いを求めることになった。それは、「わたしを救うのはあなたです。」とイエスさまの主体の中に入ることだったのです。この信仰へと導かれたのは、ペトロが失敗した結果でした。その失敗こそが恵みだったのです。この恵みへと導くために、イエスさまはペトロの求めに応じてくださり、真実の信仰に生きる道を示してくださった。この恵み深いイエスさまの世界に生かされていることを感謝して、イエスさまの主体の中で生きていきましょう。