説教

「ヨナの息子」

末竹十大 牧師

2026年8月23日(聖霊降臨後第13主日)
マタイによる福音書16章13節-20節

「シモン・バルヨナ」とイエスさまは、シモンに言います。この「バルヨナ」という言葉はヘブライ語で「ヨナの息子」という意味です。シモンは「ヨナの息子」とどうして呼ばれるのでしょうか。実はヨハネによる福音書では、イエスさまはペトロのことを「ヨハネの子、シモン」と読んでいます。ヘブライ語のヨナは、ギリシア語ではヨハネと訳されるので、ヨハネの子はヨナの息子バルヨナなのです。しかし、どうしてここではヘブライ語でイエスさまはシモンを呼ぶのか。あえてここで「バルヨナ」、ヨナの息子とイエスさまが呼ぶ意味は、先の海上歩行の出来事と関係があるではないかと思えます。シモンは、海上歩行の際に沈みそうになって、イエスさまに助けを求めました。ヨナという預言者も海に投げ込まれて、大きな魚に飲み込まれ、その腹の中で祈ったのです、「救いは主にこそある」と。

ヨナという預言者は、神さまからニネベに行って預言するように命じられます。しかし、その言葉に従うとニネベの人たちが悔い改めて、罪を赦されると思い、ニネベとは反対の方に行く船、タルシシュ行きの船に乗って、逃げるのです。ところが、その船が嵐で沈みそうになる。船に乗っている人たちは、神さまの罰が降っていると考えて、罪を犯した人を探すのですが、最後にくじを引きます。くじに当たったヨナは、「自分が神さまの言葉に従わなかったから、こうなっている。わたしを海に投げ込め」と言うのです。そこで仕方なく、船乗りたちはヨナを海に放り投げます。すると、神さまは大きな魚を遣わして、ヨナを飲み込ませます。魚の中で、ヨナが神さまに祈りをささげ、「救いは主にこそある」と祈ると魚はヨナを陸に吐き出すのです。こうして、救われたヨナは神さまの言葉に従って、ニネベに行き、預言し、ニネベの人たちは悔い改めました。

この預言者ヨナと同じ役割を担う者として、イエスさまは「バルヨナ」、ヨナの息子と呼んだのでしょう。そのシモンが、イエスさまのことを「あなたはメシア、生ける神の子です」と言うのです。救われた者として、当然の告白であろうと思えます。それに対して、イエスさまは「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」とお答えになった。シモンが答えたメシア告白は、天の父なる神さまがシモンに啓示したことであると、イエスさまはおっしゃったのです。そして、悔い改めの預言をする者として、シモンは派遣されるということを示す呼び名が「バルヨナ」なのです。

「あなたにこのことを現した」と訳されている言葉は「このことをあなたに啓示した」が原文です。啓示するということは、神さまが啓き示すということですが、真実の世界を啓いて示すことです。イエスさまが「この岩」と言うのは、神さまの啓示です。教会は、神さまに啓示されたことを素直に受け入れた人たちの集まりです。教会と訳された言葉エクレーシアは「呼び出された者たち」という意味です。神さまの啓示を与えられ、この世から呼び出された人たちの集まりが教会エクレーシアなのです。

以前にもお話ししましたが、「岩」はペトラで女性名詞です。ペトロは男性名詞で「石」です。大いなる「岩」から啓示を受けた「石」がペトロなのです。同じように、わたしたちも石あるいは小石です。しかし、大岩からの啓示によって、小石でも真実の告白ができる。それが大岩の上に建てられた教会エクレーシアです。告白こそが教会を教会とするもの。だからこそまた、啓示を受けた一人ひとりが地上で縛ることも解くことも、天とつながっている。いえ、啓示を素直に受け入れた人が天とつながっている人なので、地上でも天上でも常に神さまとつながっているのです。

シモン・バルヨナが命じられた「縛り、解く」働きこそが教会です。礼拝の中で、聖餐の際に歌われるサンクトゥスが「天の御使いと聖徒たちと共に声を合わせて歌います。」と言われるように、教会は天上と地上とが一つとなっている出来事です。キリストの十字架によって救われた者たちの集まりが教会ですから、天上と地上の区別はなく、一つです。地上の教会堂が教会なのではありません。啓示を受け入れた者たちの集まりが教会です。ですから、啓示の上に建てられた教会は、啓示を受けた人たちの集まり。地上の教会は、天上の教会の似姿だとも言えます。地上にある教会は、地上的思惑によって立ちもし、倒れもするでしょう。しかし、わたしたちは地上に限定されているわけではありません。だから、地上の教会を離れても天上の教会につながっている人は、失われることはないのです。わたしたちは毎週の礼拝において、天上と地上が一つである教会に招かれている。このことを忘れてはなりません。

ヨナの息子シモンがイエスさまに救いを求めたように、わたしたちもイエスさまに救いを求めた一人ひとりです。一人ひとり、イエスさまに手をつかんでいただいた存在です。今、天上にある聖徒たちもまたイエスさまに手をつかんでいただいた存在。天上と地上が一つである教会において、縛ることと解くことが起こる。それは、互いに戒め、互いに救いの在処を示し合うことです。

イエスさまの十字架がわたしの救いであり、あなたの救いであると示し合うことです。マルティン・ルターが言った全信徒祭司性とは、「すべての信徒が祭司の性質を持っている。」という意味です。それは、互いに神さまに救いを求めるように戒め、示し合うということです。このように生きることが地上の教会の在り方でしょう。それはまた、小教理問答書が語っていることでもあります。

為すべきことを教える「十戒」。しかし、為すべき力がないことを知った者が救いを求めるお方がどなたかを教える「使徒信条」。そして、祈り求める言葉を教える「主の祈り」。「主の祈り」を祈ることがわたしたちヨナの息子、娘たちの務めなのです。あなたには神の意志に従う力はない。むしろ、人間である自分の意志に従う。自分の思いを実現しようとする。そのようなあなたが神の意志に従うことはない。しかし、父と子と聖霊があなたに働くとき、あなたは神の意志に従うことになる。三位一体の神によって、わたしたちは救われた「石」として「岩」に支えられて生きることができる。

今日、ヨナの息子と呼ばれたシモン・ペトロは、わたしたち石たちの代表としてイエスさまの前に立っている。そして、他の弟子たちもまたそうです。その彼らに、イエスさまは最後に言っています。「御自分がメシアであることをだれにも話さないように」と。これはどうしてでしょうか。メシア告白は、人から聞いて告白するようなものではないということです。

誰かが言ったから、イエスさまはメシアなのだと信じるわけではありません。自分で、イエスさまの言葉、神さまの言葉を聞き続けることによって、わたしのうちに神さまの啓示が与えられる。その啓示によってこそ、信仰告白、メシア告白ができるのです。それは、シモンと同じように「主よ、わたしを救ってください。」とイエスさまに祈り求めることそのものが信仰告白だからです。誰かが言っているから、そうなのだろうでは信仰告白にはならない。わたしをお救いくださいと、イエスさまに祈ってこそ、わたしは主のものとして生きるのです。

ですから、信仰は学んで至るものではありません。学ぶことは、信仰を起こされた人が、自分のうちに働いている神さまのお働きを認識するために行われることです。まず信仰が与えられて、学ぶことが起こるのです。ですから、信仰を与えられても学ばない人は、信仰を理解することには至らない。学ぶ人は、自分のうちに働いている神さまのお働きを理解するように導かれる。

この礼拝で聞くみことばがあなたに学ぶべきことを教えてくださる。イエスさまの言葉、神さまの言葉が、あなたに語られる礼拝。礼拝は神さまの出来事です。神さまの出来事の中で、みことばを聞く耳が開かれるのです。戒めと赦しを受け取ることが起こるのです。戒めがなければ、赦しは安価な恵みになってしまいます。なぜなら、「わたしをお救いください」と祈る心がないままに与えられる恵みに対しては、感謝が起こらないからです。
ヨナの息子シモンは、この働きを命じられている。そして、わたしたちもまた命じられている。ヨナがニネベに遣わされたように、わたしたちもまたこの世に遣わされている。罪の赦しを得るように預言する者として遣わされている。どこに救いがあるかを伝えるために遣わされている。

わたしたち一人ひとりが、大いなる赦しの岩から啓示された罪の赦しを受け取った者として、遣わされるのです。神の裁きを伝えることと罪の赦しを得るための悔い改めを伝えること。毎週の礼拝において、罪を告白し、赦しを受けた者として遣わされていくわたしを生きていくことができますように、共に祈りつつ歩み続けましょう。