2026年8月30日(聖霊降臨後第14主日)
マタイによる福音書16章21節-28節
「出しゃばるな、サタン」といきなり言われるペトロ。びっくりしたことでしょう。直前には、「シモン・バルヨナ、あなたは祝福されている者」と言われたのに、いきなり「サタン」に格下げされてしまったのです。しかも「あなたはわたしの躓きの石だ」とまで言われる。天国から地獄に落とされた気持ちだったでしょう。「心が折れた」とペトロは思ったでしょうか。
ペトロはイエスさまに誉められて、ちょっと良い気分だったかも知れません。それで、イエスさまがご自分の受難と復活のことを話し始めると、「神の恵みがあなたにありますように。そのようなことは決して生じないでしょう。」とイエスさまに言うのです。これに対して、イエスさまは「出しゃばるな、サタン」と言う。ペトロはイエスさまのことを思って、諫めたつもり。それなのに「躓きの石」だとまで言われた。スキャンダルの語源であるスキャンダロン「躓きの石」とは邪魔をするというよりも、躓かせる者ということです。イエスさまのことを思って言ったのに、躓かせるとはどういうことでしょう。「神の事柄を考えることなく、むしろ人間の事柄ばかり考えている。」からだと、イエスさまはおっしゃっています。イエスさまを「生ける神の子」と告白したペトロですから、神さまのことを考えているのだと思っていたことでしょう。しかし、それが「人間の事柄ばかり考えている」と言われる。理解できなかったでしょう。
しかも、「出しゃばるな」と言われたのです。新共同訳で「引き下がれ」と「ついて来る」と訳されている言葉は、どちらも「わたしの後ろへ」という言葉です。「出しゃばるな」と言ったこともイエスさまに「ついて来る」ことも「わたしの後ろへ行く」こととおっしゃっている。「イエスさまの後ろに行く」ことは、自分が前に出ないこと、「出しゃばらない」こと。それが「自分を捨てる」ことの別の言い方です。
わたしたちは、自分を捨てることを、自分がなくなることだと思ってしまうでしょう。しかし、イエスさまの後ろへ行くことは、終わりの日には捨てたはずの自分が帰ってくるのです、豊かにされて。それまでの日々を、自分がイエスさまの前に立たないように、イエスさまの後ろへ立つように生きる。そのような生き方が、自分を捨てるということです。しかし、イエスさまの前に出ているか、後ろへ行っているかをわたしたちはどのようにして知るのでしょうか。それは「神の事柄を良く考える」ように生きているかどうかを自分のうちで吟味することを通してです。
わたしたちが「これは神さまのお導きだ」と思うとき、わたしに都合の良いことがあったときに思うものです。都合の悪いことがあったときには、「これは悪魔の仕業だ」と思うか、あるいは「神さまの罰だ」と思うかも知れません。これらは「人間の事柄を考えている」ことです。なぜなら、自分の立場から考えていることばかりだからです。
ペトロも、イエスさまのことを考えていたというよりも、「あなたについてきたこの人たちのことも考えてください」と、思ったことでしょう。「あなたを信じてついてきたのに、殺されてしまうなんて言わないでください。」とイエスさまを諫めようとした。それが「人間の事柄を考えている」ことだとは思ってもみなかった。神さまの啓示を受けたと言われたのに、人間の事柄しか考えていないと言われる。なぜなら、神の事柄が起こらないようにしようとすることになるからだと、イエスさまはペトロを叱る。イエスさまのこの怒りをペトロはどう受け止めたのでしょうか。
イエスさまの後ろへ行って生きるとすれば、イエスさまと同じように、自分を殺害する人たちがさまざまな批判や迫害を加えてくるときにも、「神さまのご意志がなる」と信じて歩み続けることになる。それが「神の事柄を良く考える」ことです。しかし、わたしたちは、自分にとって悪いことが起こると、こう思うでしょう。「あれは、悪魔の仕業だ。」とか「神さまの罰だ」と。このとき、わたしたちは神さまの事柄を考えてはいない。自分を正当化することや、立場を守るにはどうしたら良いかと考える。人間がわたしの邪魔をしていると思うだけではなく、神さまがわたしに罰を与えていると思うときにも、わたしは人間の事柄を考えている。なぜなら、自分の立場から考えているからです。そのようなとき、わたしたちは、「何が悪かったのか」と考えて、「あれをしないように」、「これをしないように」と対策を練るでしょう。そして、「神の事柄」から離れて行く。悪いことをしないということを考えるとき、わたしたちは神さまの罰を素直に受けてはいないのです。罰から逃れる道を探すでしょう。また相手の悪に対抗する。相手の悪を野放しにしていると、悪は広がっていくのではないかと思えるからです。
しかし、悪というものは抵抗しなくても広がっていくもの。抵抗しても広がっていくもの。それが悪の悪であるところ。だからこそ、パウロは「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」と言うのです。このわたしが悪に巻き込まれないように生きることを良く考えなさいということです。悪に巻き込まれないように生きるとすれば、イエスさまの後ろへ行って立つしかない。だとすれば、イエスさまが生きたように、悪に抵抗せず、自分に行われる悪を受け入れていくことになる。そうすると、わたしは否定され、迫害され、排除される。それでも、イエスさまの後ろへ行くことができるのか。これができないのが人間です。「サタン」に唆される人間ですから。
義しいことを求めているけれども、わたしが神さまの事柄を考えているかどうかを自分に問うことはないのです。人間はどこまで行っても、自分を問うことがない。それが現代で言えば、「正解」を求める人間。「問い」を生きる人間は「正解」を求めることはない。なぜなら、この世界に「正解」はないからです。
ある人にとって「これが正解だ」と思えるものがある一方で、別の人にとっては「あれが正解だ」と思えるものがある。その中で、わたしたちはどの正解がわたしに都合が良いだろうかを考える。そして、力の強い方の正解に加わろうとします。なぜなら、力の強い方が勝つと思えるからです。これは正解でも何でもなくて、どっちにつけば自分は守られるかを考えるただの権力闘争でしかない。「人間の事柄」でしかないのです。
イエスさまの時代にも、弟子たちはおそらく「正解」を求めていた。イエスさまについていけば、成功するだろうし、イスラエルは回復されると思っていた。ところが、イエスさまは、「長老たち、祭司長たち、律法学者たちに苦しめられて、殺される」とおっしゃった。「そんなはずはない。正解を生きているイエスさまのはず。」、「あなたについてきたわたしたちはどうなる」とペトロは思った。人間の事柄を考えることが「正解」を求める生き方になる。反対に、神の事柄を考えることが「迫害と死」を生きることになる。この二つの考え方のどちらで生きるのかと、イエスさまはペトロや他の弟子たちに問うた。この問いを生きることが、イエスさまの後ろへ行くということになるのです。
正解はない。あるのは、神さまのお働きのみ。その世界にあっては、わたしに都合の悪いことも起こる。それでも、神さまのご意志がなっていくと信じる。それこそが、義しさを求める生き方になるのだと、イエスさまはペトロや弟子たちに教えてくださった。この問いを生きるとき、答えはどこで与えられるのでしょうか。終わりの日、終末において与えられる。
そのとき、「それぞれの行いに応じて報いる」と言われていますが、「報いる」と訳されている言葉は、「払い戻し」という意味です。つまり、差し出したものが利息と共に返ってくるということです。返ってくるのは、豊かにされたそれぞれの魂です。イエスさまの後ろへと行った自分自身である魂が、苦難を通して豊かにされ、返ってくる。これが終わりの日だとイエスさまはおっしゃる。その日を望み見ながら、イエスさまの後ろへと行く生き方を求めて歩む。苦難や迫害があったとしても、イエスさまが前に立っておられると信頼して、歩み続ける。人間に振り回される生き方を投げ捨てて、イエスさまの背中を見つめながらついて行く。あなたの魂が豊かにされて、戻される終わりの日は必ずやって来るのです。イエスさまは復活なさったからです。
イエスさまの受難予告と言われる言葉は、実は復活予告です。これをちゃんと聞いていなかったのがペトロ。だから、どうなるのかと心配になった。復活が予告されているのに、聞いていない。人間の事柄ばかりを考えていると、そうなってしまう。ここから脱け出すために、イエスさまは叱ってくださった。イエスさまの復活によって、わたしたちには終わりの日の払い戻しが予告されているのです。このイエスさまの言葉を信じ、イエスさまの後ろへと行く生き方を求めて歩み続けましょう。神さまの事柄を考えながら。

