説教

「イエスの名の中へ」

末竹十大 牧師

2026年9月6日(聖霊降臨後第15主日)
マタイによる福音書18章15節-20節

今日の日課の中で、罪を犯した人の罪を指摘することが述べられています。これは、この世の実行された罪というよりも行為の裏に隠れている根源的な罪の指摘のことでしょう。ペトロがサタンと言われたような人間のことを思っているという罪のことでしょう。このたとえでは教会の中の出来事ですが、最終的には教会から追い出すかのように思える言葉で訳されています。ところが、この「あなたにとって、異邦人や徴税人と同様に、存在させなさい」という言い方が語っているのは、イエスさまのそれまでの生き方から考えてみると、「教会の言うことを聞かないならば、イエスさまに任せること」が述べられていると言えます。

なぜなら、イエスさまは徴税人や罪人と呼ばれる人たちを招いて、食事を共にしていたからです。また、異邦人であるカナンの女性にも大いなる信仰が与えられることを証ししてくださっています。そのような人たちが自分たちを排除する人たちに対抗するのではなく、神さまの世界に入るように関わっておられたのはイエスさまです。ですから、人間の言うことは聞かないとしても、イエスさまのおっしゃることは聞くだろうということでしょう。今日の個所の前に語られている「迷い出た羊」のような人なのです。

先のペトロの信仰告白の際に、イエスさまは「教会」エクレーシアを「この岩の上に建てる」とおっしゃっていました。教会は「この世から呼び出された人たち」という意味の言葉です。そこでは、イエスさまは、「わたしが」教会を建てるとおっしゃっています。つまり、教会エクレーシアを呼び集めるのはイエスさまであり、教会エクレーシアは「啓示を受けた人たちがイエスさまによって集められること」だという意味です。

このエクレーシアという言葉は、旧約聖書にも出てきます。ギリシア語訳旧約聖書の「コヘレトの言葉」はエクレーシアステースと言われます。それは「集会を主催する者」、「集会で説教する者」という意味です。一方で、ユダヤ教の礼拝堂、会堂のことはシナゴーグと呼びます。この言葉は「共に集まる」という意味の言葉です。エクレーシアも使われていたようですが、その場合は「集会」だったようです。イエスさまは「わたしのエクレーシアを建てる」、つまり「わたしの集会を建てる」とおっしゃった。神さまの啓示の岩の上に建てられたのがイエスさまのエクレーシアです。

このエクレーシアは、神さまの啓示によって開かれた神さまの世界へと、神さまによって呼び集められること。これが「教会」エクレーシアという「集会」です。ですから、わたしたちキリストの教会は、自分たちが集まるのではなく、神さまの呼び出しによって集められるという「出来事」のことだと言えます。どこかの場所に集まることではなく、どこであろうと集められるという「出来事」や「状態」です。ですから、天上においても地上においても、一つの「出来事」が教会なのです。

教会とは神の呼び出しによって集められた人たちの集まりです。それでも、その中にはそうではない人も混じり合っていると、ルーテル教会は考えています。アウグスブルク信仰告白というルーテル教会の信仰告白の第8条ではこう述べられています。「教会は本来、聖徒と真の信仰者の会衆であるが、しかも、この世においては、多数の偽善者と、悪しきキリスト者が、混合している。」と。この世の教会には、偽善者や悪しきキリスト者が混ざり合っていると言うのです。

神さまの招きによって集められる出来事が教会であるとしても、この世においては、そこに自分の意志によって入り込むこともできるからです。外からは分からないということです。この世の教会は、本来の教会と完全に一致するわけではないのです。わたしたちは、本来の教会に「集められる」けれども、すぐにこの世の「集まる」ことに戻ってしまうものです。

わたしたちの信仰生活の中でも、イエスさまがおっしゃっているように、罪を指摘して戒める必要もあるでしょう。しかし、わたしたちはなかなか戒めることはしません。罪を指摘し、戒めると、上から目線と思われて、それまでの関係が崩れるとも思うからでしょう。それで、見て見ぬ振りをするということも起こります。これも仕方のないことです。わたしたちは、この世で生きていますから、この世の関係が崩れることを恐れる。この世と同じ価値観で生きてしまうのも、この世の教会です。そのような中にも、本来の教会は存在しているとイエスさまはおっしゃっています。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」と。

二人の人がイエスの名の中へと集められている状態にあるならば、その人たちのただ中に、イエスさまは存在しておられるとおっしゃるのです。「集まる」と能動で訳されていますが、実は受動態の分詞です。ですから、わたしたちが能動的に「集まる」のではなく、神さまによって「イエスの名の中へ」「集められる」ことが教会です。

わたしたちは本来的な教会に「集められている」のです。地上の教会には、自分の目的を持って「集まってしまう」人もいるのですが、そのような人たちが含まれているとしても、本来的な教会は「集められている」状態においてどこにでも存在しているのです。本来的な教会においては、戒め合うことも可能でしょう。人間関係が壊れることを恐れる必要はないからです。互いに、神さまの前に生きようとしているのですから、戒めは神さまの言葉から来ると一人ひとりが信じているからです。

アウグスブルク信仰告白が告白している「教会」とは、今日イエスさまがおっしゃっている通りの教会です。二人、または三人であろうとも、イエスさまの名の中へと集められている出来事です。申し合わせて集まるわけではない。集められるところが教会堂という場所である必要もない。イエスの名の中へ集められている状態を生きているならば、イエスさまはそのただ中に存在しておられる。そして、その二人が声を合わせて祈るならば、神さまは聞いてくださる。ここで言われている祈りは、迷い出た羊のために祈る祈りでしょう。

このイエスさまがただ中に存在しているという状態が語っているのは、イエスさまの名の中へと集められて、イエスさまのうちに包まれている人たちの中に、イエスさまが存在しているということです。ヨハネ福音書でたびたび出てくる「わたしがイエスさまの中に」、「イエスさまがわたしの中に」、というイエスさまとわたしが相互に内在する状態と同じです。ですから、互いに戒め合うとしても、イエスさまがそれぞれに語り掛けることになります。また、それぞれを通して語り掛けるイエスさまの言葉を聞く耳を開かれることにもなるでしょう。そのように、お互いのうちにおられるイエスさまが、わたしに語り掛けてくださっていると聞く耳を開かれた人たちが集められている状態。それこそが本来の教会なのです。

わたしたちは自分の意志で集まるのではありません。集まろうと呼びかけ合って集まるのでもありません。必然的に集められている状態にあるとき、一人ひとりは教会を生きているのです。わたしたちが教会を作ろうとして教会ができるわけではありません。教会は教会とされることであって、教会となることではないのです。教会を作ろうとすることは、先週のみことばにあったように、人間のことを考えているのです。神のことを考えているなら、教会とされることを生きるのです。それは、一人ひとりがいかに生きるかの問題です。

今日、イエスさまが教えてくださっているのは、教会が教会として生きるということの根源に何があるのかということです。それは、一人ひとりを呼び出し、集めるという神さまのご意志があるということです。このご意志に従って、集められるままに集められるとき、わたしたちは教会エクレーシアなのです。このような教会であるとき、わたしたちは互いに戒め合い、互いからイエスさまのご意志を受け取り合う関係を生きるでしょう。そして、共に声を出して祈るとき、神さまはその祈りを聞いてくださるのです。

教会は、イエスさまの名の中へと集められた一人ひとりの集まり。その一人ひとりのためにご自身を与えてくださるお方がそこにおられる。集められるという出来事の中にこそキリストの説教を聞く民が生きているのです。そして、その民の祈りこそが教会なのです。わたしたちが本来の教会として生きることができますように共に祈りましょう。