説教

「変わり得ないもの」

末竹十大 牧師

2026年9月20日(聖霊降臨後第17主日)
マタイによる福音書20章1節-16節

わたしたちは自分の都合でいろいろなことを変えたくなります。一方で、義しくあることを変えない人もいます。両者は、見ているところが違います。自分が損をしないように変えようとする人と、損をしても義しくあろうとする人では意識しているものが違います。

今日のたとえでは、自分が損をしないように、最初の約束を変えてくれと言う人が出てきます。この人に対して、主人は「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。」(20:13)と主人は言っています。この人は「約束した」ことを覚えていないのではありません。自分に都合の良いように変えて欲しいと求めているのです。しかし「約束」は義しく行われなければならない。そして、主人が最後の人にも同じように賃金を払ってやりたいと思った心は、最初の人と「約束した」ことと同じ心でしょう。主人は、心を変えてはいないのです。

ここで「約束した」と訳されている言葉は、シンフォニーの語源であるシンフォノーという言葉で、共に声を出すこと、声を合わせること、合意することです。自分が合意していながら変えてくれと言う。自分の口から出てきた言葉を変えるならば偽善です。変えたくなっても、変わり得ないことに忠実でなくてはならない。合意したにもかかわらず変えるとすれば、気持ちが変わったわけです。最後の人の賃金を見たから不公平だと言い始めた。それを行わせるものが悪であり、罪を実行させる大元なのです。

不公平だと言う人に対して、雇い主はこう言っています。「わたしの気前のよさをねたむのか」と。この言葉は「わたしが善であるがゆえに、あなたの目が悪しくあるのか。」が直訳です。「わたしが善であることをあなたの目は悪と見ているのか」ということです。ここで変更を求める人は善である主人を悪であると批判しているわけです。善は善です。悪は悪です。善と悪が入れ替わることはありません。善と悪を変えるならば、何が善であるのか分からなくなってしまいます。善が善であるためには変わり得ないことを守らなければならない。雇い主の善は変わり得ない心。雇い主の善が天の国。それでも、最初の人の目は悪と見てしまう、自分にとって。

自分の労苦に対して、変えてくれるはずだと考えたのが、最初に一日1デナリオンで合意した人です。その人がこう言うのです。「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。」(20:12)と。

合意していながら、最後の人との仕事量を比較して、一日中働いたわたしの賃金を変えてくれと要求する。自分が合意したことを反古にする。わたしたちの社会にもこれと同じことが起こるものです。他者と自分とを比較して、不公平だと言い始める。しかし、最後の一時間まで立ち続けた人の労苦には目が向かないのが最初の人です。誰も雇ってくれないのに、暑い中を最後の一時間まで立ち続けるしかなかった人はどんな気持ちだったでしょうか。主人はその気持ちを知っています。「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」と聞いているからです。一日働くことができた最初の人には、最後まで立ち続けた人の気持ちは分からなかった。誰も雇ってくれなかった人にも相応しい賃金をあげたいという主人の心は、最初の人を雇ったときと変わり得ない心なのです。

この主人は何度も労働者を雇いに出掛けています。9時、12時、3時、5時と4回も補充された労働者たちによって、最初の人たちの労働量は軽くなっているはずです。ぶどう園の収穫労働全体を考えて、労働者を増やしていった主人によって、最初の人たちは労働が軽くなっているはずです。わたしたち人間の悪しき目は何を見ているのでしょうか。自分の労苦にしか目が向かない。そして、不当だと言い始める。このようなことは、どこにでも起こる。そして、最初の約束を蔑ろにする。自分で合意していながら、自分から無効にする。これによって、その人は最後になる。

自分が合意を無効にしていながら、それを悪だとは思わない心。これが普通の人間です。神さまの善い心を不公平だと見る悪い目を持っているのが普通の人間です。イエスさまは、この悪を批判して、十字架に架けられるのです。たとえ十字架に架けられても、善は善、悪は悪。変わり得ないものは変わり得ない。厳然とした神さまの心を守るために、イエスさまは十字架を引き受けられた。このイエスさまの在り方をわたしたちはどう考えるのでしょうか。

最初に雇われた人は喜んでいたはずです。それなのに、最後には不平不満を雇い主にぶつける。その気持ちも分からないではありません。しかし、自分が合意した最初の取り決めをどう考えているのでしょうか。最初に取り決めた合意を無効にするということは、どうして起こるのでしょうか。最後の人にも同じように払ってやりたいという主人の善を悪だと思う。今日の旧約日課のヨナが怒ることと同じです。

わたしたちの善も同じでしょう。他者との比較によって、不平不満を言うことになるだけなのに善だと思っている。それは自分にとっての善であって、他者の労苦は考えには入っていない。あるいは、その人の労苦を知らされた後で、「言ってくれれば良かったのに」と言って、「あなたが言わなかったから、わたしは分からなかった。」と言い訳する人がいます。言わなかったあなたが悪いと言っているようなものです。言ったとしても、「大変ねえ。祈ってます。頑張ってね。」と言うだけでしょう。このような言い訳や責任逃れは、どこにでも起こるのです。こうして、わたしたちは善と悪を入れ替える。一方で、主人は捨てられている人を拾ってくださった。これが天の国だとイエスさまはおっしゃる。
このたとえが天の国のたとえであるならば、天の国とは善を善とし、悪を悪とする世界だということです。そして、最後の人を最初の人にするのが天の国だということです。変わり得ないことを変わり得ないこととして守る世界が天の国なのです。

先の者が後になり、後の者が先になるという言葉の意味は、先の者が自分の労苦にばかり目が向いてしまうために、後の者になってしまうということでしょう。それはまた、変わり得ないものを変えるならば、変わり得ないものがなくなるということでもあるのです。そうして、すべてが変わってしまう。人間の都合によって、人間の思惑や力によって、変わってしまう。いつの時代にもこの世で力を奮っている人間の都合によって、いろいろなことが変わってしまうのです。それは天の国ではないとイエスさまはおっしゃっています。

変わり得ないものを変えないことこそが天の国なのです。それでは、これまでと同じようにしていれば良いのかと思う人がいるかも知れません。そうではありません。自分の都合で、自分が損をしないように、善を悪とするようなことをしないように生きるということです。これまでと同じようにしていれば良いと考えている人間は、伝統の精神さえも破壊するのです。伝統とは去年と同じようにするという表面的な形ではありません。形を継続しようとすることが、変わり得ないものを守ることではないのです。慣習や伝統という形はあくまで形であって、それが生まれてきた大元の心ではないのです。今日のたとえで重要なのは主人の心です。与えたいという心です。キリストが大切になさったのは変わり得ない神さまの心です。神さまのお心に従い、善を善とするためにご自身の命を献げたお方がキリストです。このお方と一つとされた魂を生きることが変わり得ないものを守ることなのです。

わたしたちもまた、誠実に、善を善として生きていきたいとキリストに従ってきたのです。そのためにこそ、聖書を読み続けている。義しい言葉は厳しいものです。神さまが約束したことは変わり得ないのです。善である神さまの言葉は変わり得ない。善とは変わり得ないものであり、善を守ることは厳しいことです。善であることを守る人は与えられたもので満足するのです。そのような義しく、善である言葉に従う魂は、キリストの説教を聴いています。厳しい戒めを語ってくださるキリストがおられるからこそ、わたしたちは自らが見ていなかったものを見る目が開かれる。聞いていなかったものを聞く耳が開かれる。見ていなかった、聞いていなかったのは、自分の都合に合わないからです。神さまのご意志が自分の都合に合わない。みことばを聞き続けていない人は善を悪とする生き方へと流されていく。いつも語り続けてくださるキリストの説教を聞く人は、その人の内なる魂がキリストと一つの魂とされて変わり得ないものを守っていく。このような道を備えてくださったのは、十字架に至るまで義しく生きてくださったキリスト、十字架の主です。このお方のお心に感謝して、歩み続けましょう。変わり得ない神さまの心を見つめて。