2026年9月27日(聖霊降臨後第18主日)
マタイによる福音書21章23節-32節
今日のイエスさまと祭司長や民の長老たちとの議論では、「権威」というものが問題になっているように思えますが、その後の兄弟のたとえに明らかなように、この世での受けの良さに左右されてしまう人たちがどこに立っているのかをイエスさまは問題にしておられることが良く分かります。
「なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」(21:32)とイエスさまは祭司長や民の長老たちを批判しています。「後で考え直して」という言葉は、二人の兄弟の兄にも使われています。「兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。」と。この「後で考え直して」という言葉は、「後で、気がかりを変えた」という言葉です。つまり、兄は最初の「気がかり」と後の「気がかり」で変わっているということです。「祭司長や民の長老たち」は弟と同じで、「気がかり」は変わっていない。兄と弟の「気がかり」はどのようなものだったのでしょうか。
兄が「行かない」と言ったので、弟は「行きます」と言っているようです。つまり、父に認められることを選択したのです。自分も行きたくなかったのでしょう。それで、結局「行かなかった」のです。弟は「気がかり」が変わっているように思えます。一方、兄の方も「行かない」と言ったのに「行った」のですから、「気がかり」が変わっているように思えます。
弟の方は、最初の「気がかり」が父に認められることだったとすれば、認められなくても良いことに「気がかり」が変わったかのようです。兄は「自分の意志」が最初に「気がかり」でしたが、後に「父の意志」に「気がかり」が変わったと言えます。自分の意志を離れて、父の意志に従った。そう考えてみると、弟は「父の意志」に従っていたのに「自分の意志」に変わったのでしょうか。いえ、弟は最初も最後も同じ「自分の意志」から変わっていないのです。なぜなら、弟は「父に認められたい」という「自分の意志」が「気がかり」だったからです。そして、最後には、「行きたくない」という「自分の意志」が「気がかり」になった。つまり、弟は最初から最後まで「自分の意志」が「気がかり」だったのです。兄の方は、「行きたくない」という「自分の意志」から「行って欲しい」という「父の意志」に「気がかり」が変えられたのです。兄は、自分の中で、根源的に考えている人だったと言えます。弟は、その場の受けの良さを「気がかり」としていたとも思えます。この姿が「祭司長や民の長老たち」の姿だとイエスさまは語っておられる。彼らの関心は、神さまの義しいことではなく、自分の受けの良さだったのです。
だからこそ、イエスさまが「ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」と尋ねたことに対して、彼らはこう考えています。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。」(21:25-26)と。イエスさまの権威を問う彼らがこんなことを考えていると、イエスさまは分かっておられた。それで、兄と弟のたとえを語られたのでしょう。彼らが見ているのは、この世の人々が自分たちを受け入れてくれるかどうかです。それが「気がかり」で仕方がない。彼らは、イエスさまの権威を問うたのですが、もともと権威など彼らには関係ないのです。ただ、イエスさまを否定できれば良い。批判できれば良い。自分たちの受けの良さがあれば良い。それだけが彼らの「気がかり」だったのです。非常に表面的な人間ですが、これが普通の人間でしょう。それが弟の気がかりだった「自分の意志」なのです。
わたしたちの社会にも同じような人たちがいます。根源的なものを見る人と、人間的なものを見る人。人間的なものに目が向いているならば、義しい判断はできません。自分が受け入れられることを求めている限り、この世に振り回されます。根源的なものを見ているならば、この世に振り回されることはありません。しかし、ヨハネのように、またイエスさまのように、この世から嫌われる。わたしたちはどちらを選ぶのでしょうか。大抵は、この世から受け入れられることを選ぶものです。そして、この世に支配される。
自分が支配していると思っている祭司長や長老たちは、実はこの世に支配されているのです。それは単にこの世の群衆ではなくて、群衆を動かしているものに支配されているのです。それは何でしょうか。悪です。人間のうちに働いて、神さまの義しさを生きないようにする悪です。神さまから離れさせる悪です。この悪に支配されることが人間の問題なのです。
表面的なものを取り繕うのか、根源的なものに動かされるのかで、最終的なところが変わってしまう。取り繕う生き方は、自分がこの世を支配しているようで、実はこの世の受けの良さに支配されています。反対に、根源的なものに動かされるということは、そこにわたしの判断や思惑は入り込まないということです。わたしたちの間でも同じような二つの判断が起こるものです。目の前の受けの良さを考える人と自分の心に問う人。表面的な判断と根源的な判断。兄の根源的な「気がかり」は最終的に「ぶどう園に行く」ことに至った。弟の方は簡単に父との約束を反古にした。これが祭司長や長老たちの姿だとイエスさまは教えておられる。これを聞いて、彼らはなおさらイエスさまを殺そうと考えるようになったのです。図星だったからです。
わたしたちは根源的な義しさを求めて生きるのか。表面的な受けの良さを求めて生きるのか。その場しのぎで生きるのか。神に向かって、根源的に生きるのか。この世の無責任な存在の受けの良さを求めて生きるのか。イエスさまは根源的な義しさを求めて生きてくださった。第一日課のエゼキエルが預言しているように、ヤーウェの道は義しいのです。その道をまっすぐに歩むことが義しい歩みです。イエスさまに救われたわたしたちは、当然根源的な義しさを求めて生きているでしょう。たとえ、この世の表面的な受けの良さを求める人たちに批判されようと、イエスさまに従って生きるでしょう。その力は、イエスさまの十字架から来る神の力です。弱さの中で働く神の力です。わたしが強くなるのではありません。神さまの力が弱いわたしのうちに働くのです。この力に満たされるために、わたしたちはみことばを聞き続けているのです。みことばが、わたしのうちで働いて、わたしが神さまに動かしていただくようになるために、わたしたちはみことばを聞くのです。そして、みことばを自分のうちで何度も考え、自分は何に支配されているのかと問うのです。
受けの良さを求めて生きるならば、この世と何も変わらない。悪に支配され、人間に支配され、自分の立場を守ろうと躍起になる。そして、使い物にならなければ捨てられる。もちろん、わたしたちは神さまのご意志に従うように生きる。兄が先に「行かない」と言ったのは、受けの良さを拒否した応答だったと言えるでしょう。いつも神さまの意志に従うために、自分のうちに嘘がないか、建前で考えていないかを見極める。そのためには、まずゼロから始める必要がある。それが、兄が「行かない」と言って、父との関係をまず断ったことなのです。この世に迎合したくなる自分に対して「行かない」と、兄は言ったと言えます。
以前にも話しましたが、「思考することはノンと言うことである。」とデリダという哲学者は言いました。何に対してノンと言うのかと言えば、周りに迎合してウイと言う自分に対してノンと言うのです。これができないならば、キリスト者もこの世と同じ。「それではダメだ」と自分に言う人は、どこで生きているのでしょうか。神の言葉の中で生きているのです。人間の言葉の中で生きるならば、この世に受け入れられるかも知れません。しかし、神さまに受け入れられることはありません。この違いがどこから来るのかを、自分のうちで良く考えなければなりません。
わたしを動かしてくださる神の言葉を、わたしのうちで語ってくださるお方イエスさまに信頼して生きる。このお方が、あなたがどこで生きているのかを問いかけてくださる。アダムとエヴァが禁断の木の実を食べたあと、隠れてしまった彼らに神ヤーウェは言います。「アダム、あなたはどこに」と。この「どこに」と問いかけてくださる神さまの言葉は、あの十字架の上にあるのです。わたしが根源的な意志に従おうとしているのかを問いかけておられる神の言葉は十字架の上から聞こえてくる。真実の自分と向き合って、神の意志に従う生き方をわたしの「気がかり」とするために、わたしたちは十字架を見上げ、自分に問うのです。「おまえはどこにいるのか」と。こう自分に問いながら生きていく。
イエスさまの言葉によって耳を開かれ、根源的な神さまのご意志を生きるわたしとされるために、救われたわたしであることを何度も確認しながら生きていくのです、神さまのご意志のうちに生きるために。

