説教

「選ばれた者」

末竹十大 牧師

聖霊降臨後第20主日礼拝 説教
マタイによる福音書22章1節-14節

「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」とイエスさまはおっしゃっています。この最後の言葉と婚宴のたとえとの整合性があるとは思えません。なぜなら、たとえで婚宴の席に招かれた人の中で外に投げ出されるのはたった一人だけだからです。「招かれる人は多いが、選ばれる人も多い」かのように思えます。このたとえでは、呼ばれた者たちのうちで残されている者たちは多くの者たちです。もちろん、先に呼ばれていた者たちと後に呼ばれた者たちを加えて、呼ばれた者たちのうちで選ばれたのは後に呼ばれた者たちだと言うのであれば、整合性があるようにも思えます。後で呼ばれた者たちが選ばれた者たちなのでしょうか。しかし、外に投げ出されている者が選ばれた者ではないかと思えます。なぜなら、外に投げ出される者だけが多くの人たちの中で唯一選び出されているからです。この人が普通の服で婚宴に出ていることに気づいた王さまが彼に問うていますが、その人は何も答えません。沈黙しているのです。この人だけが、多くの呼ばれた者たちの中から選ばれて、外に投げ出されるのです。
外に投げ出される存在はたった一人。考えてみれば、イエスさまもたった一人外に投げ出された。排除される一人がイエスさまであるとしたら、たとえ自体が、これまで理解されてきたたとえの意味とは違うことを語っているようでもあります。

6節から7節で述べられている言葉にはこうあります。「また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。 そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。」と。この有様は、先週のぶどう園の農夫たちの姿と重なります。この言葉で表されているのは、ユダヤ教指導層のことでしょう。彼らが呼ばれた者たちの代表であり、断るだけではなく、王さまの使者を殺害するのです。ユダヤ教指導層が預言者たちを迫害したことと重なります。

最初に呼ばれた人たちは殺害され、その後大通りで呼び集められた人たちは何の資格もなく呼び集められた。その人たちで婚宴の席は多くの人で溢れました。彼らが多くの者たちであり、その中から選ばれたのはすべての者たちではなかったということでしょうか。そのようなことは物語られてもいません。たとえそうだったとしても、最後の言葉との整合性はありません。多くの人たちの中の一人だけが外に投げ捨てられ、残っているのは多くの人たちの中から一人欠けた残りの多くの人たちです。

田川健三という原文をまっすぐに読む神学者がいます。彼は、11節から14節はマタイの創作であろうと見ています。そうであれば、10節まででたとえは終わっているということになります。これならば、罪人や徴税人を招いたイエスさまの生き方と天の国は似ていることになります。しかし、外に投げ出された一人がイエスさまであるとしたら、天の国のために殺害されたイエスさまのことを語っているたとえになります。多くの人たちは、その一人にすべてを負っているのです。そして、残りの多くの人たちが天の国に呼ばれた人たちだということになります。では、彼らは選ばれているのでしょうか。

もし、彼らが選ばれているとすれば、殺害された預言者たち、たった一人外に投げ出されたイエスさま、残された呼ばれた人たちのたとえということになります。これらすべてが天の国を現しているということです。そうであれば、このたとえはイエスさまがご自身のことを述べたたとえだと思えます。また、先週のぶどう園の農夫たちのたとえと同じように、独り息子が殺害されることとも重なるでしょう。果たして、どうなのでしょうか。

このたとえをイエスさまが語ったのは、ご自身の身に起こることを述べるためでしょう。そこに関わっているのが、王さまなのですが、王さまが神さまであるならば、神さまが選んだ一人がイエスさまだということです。天の国に呼ばれるのは、資格がないと思われている人たち。その中には、悪人も善人もいると言われています。ということは、この世の判断で悪人や善人とされているとしても、天の国に呼ばれることに差別はないということです。さらに、差別なく呼ばれた人たちの中で、選ばれたのはたった一人。その人は、婚宴であろうと普通の姿をしています。つまり、特別の宴席と普段の食事と何も変わりなく生きているということです。マナー違反と普通は思われる。それがイエスさまの生き方です。こう考えてみれば、イエスさまが王さまに選ばれて外に投げ出されたのは、神の意志であるということになります。その意志を負ってイエスさまは、黙って外に投げ出された。このお方の十字架によって、呼ばれた人たちは救われている。

多くの神学者は、宴会の服を着ていないということを、天の国に相応しい姿になっていない人だと考えてきました。しかし、そのような考え方は、ユダヤ教指導層と同じ考え方です。神の民として相応しく立派に律法を守っている者でなければ、天の国に入ることはできないという考え方です。このような考え方をイエスさまは否定したのです。だからこそ、罪人や徴税人たちと食事をなさった。だとすれば、このたとえがわたしたちに語っているのは、たった一人のお方の追い出しによって、宴席に残ることができたわたしであることを心に刻む必要があるということではないでしょうか。

先に呼ばれていた人たちによって殺害された使者たちもまた預言者たちのように選ばれていた人たちだと言えるでしょう。預言者たちが迫害され、殺害された歴史も含めて、わたしたちは多くの義しい人たちの犠牲の上に、生かされているということです。このようないのちを与えられているのがキリスト者なのです。わたしたちは、自分が選ばれていると思うかも知れません。しかし、わたしたちが選ばれているのではなく、選ばれて神さまの御業のために自らを投げ出した多くの義しい人たちのおかげで、わたしたちは救われているということを忘れてはならないのです。

イスラエルの歴史だけではなく、キリスト教会の歴史を通しても、同じように犠牲を負ってくださった方々がいた。その人たちの犠牲の上に、わたしたちは救いに与っている。そうであれば、わたしたちもまた、誰かのために神さまに自分を献げる生き方が求められているとも言えます。自分の世界を守るために、預言者たちを殺害したユダヤ教指導層たちと同じように生きてしまうのが、人間です。この人間的な生き方をしてしまうわたしたちの罪を誰かが負ってくださっている。究極的には、イエスさまが負ってくださっている。これが、今日のたとえが語っていることではないでしょうか。このように読む人は少ない。

「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」という言葉をわたしたちは、どうしても功利主義のような教訓として読んでしまう。イエスさまは教訓を語っておられるのではありません。イエスさまのたとえは、わたしたちの罪の現実を語っている。イエスさまは、その罪からわたしたちが解放されるために語ってくださっている。

聖書を読むということは、キリストがわたしに何をしてくださったのかと聞くことであるとルターは言っています。わたしたちは、わたしが何をすれば良いのかを聞きたいと思うものです。その通りに行えば、わたしは天の国に入ることができるような方法を教えて欲しいと思うものです。しかし、聖書は方法を教えてくれるのではありません。神さまが、わたしたちを天の国に入れるために、何をしてくださったのかを語っているのです。それは、裁きの言葉でもあります。裁きは、義しく裁くものですから、何が義しいことかを教えてくださる。しかし、義しく生きることができない人間を救うために、神さまは何をなさったのか。イエス・キリストをお遣わしくださった。イエスさまの十字架を神さまの御心として実現して、ただイエスさまを信じる者が救われる道を開いてくださった。

今日聞いているたとえが語っているのは、人間が義しくなって天の国に入ることではない。悪人でも善人でも招いてくださる天の国。その天の国に多くの人たちが留まるために、犠牲を負ってくださった選ばれた人たちがいる。最後に十字架を負ってくださったイエスさまがおられる。このお方を信じる者もまた選ばれた者。イエスさまにすべてを負っていただいたと信じる者も、選ばれた者。たった一人神さまに選ばれたイエスさまに従う者は、選ばれた者。わたしたちは、そのような者としてイエスさまに従って行く者なのです。イエスさまが外に投げ出されて、殺害されたことにすべてを負っているわたしであることを心に刻みながら、イエスさまの十字架を見上げて歩み続けて行きましょう。