「神の国の実」

「神の国の実」

2026年10月4日
マタイによる福音書21章33節-46節

今日、イエスさまが語っておられるたとえは、イエスさまご自身のことを語っているように思えるたとえです。大切な独り息子を殺された主人は、戻ってきて、殺害者である農夫たちを殺して、収穫を収める農夫たちに貸すことになる。このたとえのまとめとして、イエスさまはこうおっしゃっています。「だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。」

ここで「相応しい実を結ぶ民族」と訳されていますが、直訳ではこうなります。「その実を作る」、あるいは「その実を行う」と。つまり、「神の国の現れとしての実を実行している民族」とイエスさまはおっしゃっているのです。ということは、その民族の根っこが神の国のうちに植えられているということです。なぜなら、ぶどうの実と同じように、ぶどうの木がぶどうの木に相応しい土地に植えられていなければぶどうの実はならないからです。ですから、その民族の根っ子が神の国という土地にあるかどうかということになります。

本日の旧約聖書の日課でイザヤが預言しているように、主が植えたぶどうの木があるのです。しかし、ぶどうの木は植えたお方を忘れ、植えられた土地を失っている。なぜ、そうなってしまったのか。ぶどうの木が自分で抜けだして、別の土地に植わるということなど起こり得ないことです。しかし、アダムとエヴァの出来事に語られている通り、神さまは二人が自分の意志で神さまのご意志に従ってくれることを願われた。しかし、神さまのご意志に従わず、自分の意志に従うようになってしまった。人間は皆悪しか行わないというノアに語られた神さまの言葉が語っているのは、人間は神さまのご意志を離れて、自分の意志に生きるようになったということです。人間は神さまのご意志には従わない。それゆえに、別の土地に植わっているぶどうの木は酸っぱいぶどうの実しかつけることがない。イザヤが聞いた神の言葉はそう語っているのです。

そのような民族から取り上げられた神の国が別の民族に与えられるとすれば、神の国の実を結ぶことにおいて神の国が与えられていることが実として現れているということです。神の国という良い土地を与えられているから行うことができる。うちにあるから外に現れる。根っこがあるから良い土地から栄養を受けて実を結ぶことができる。ただし、その民族の根っ子が神の意志を神の国という土地から受け取り続けているかどうかが問題になります。

神の国は実を結ぶように働く力です。神の国の実を結ぶ民族はすでに約束である神の国という土地に生きているのです。だから、神の国を求めることはないでしょう。求めなくても良いのです。神の国の中に入っているのです。神の国がその民族のうちで栄養として働いている。それゆえに、その民族は神の国を生きることができる。

その民族は「隅の親石」のような存在だと言えるのですが、新共同訳が言う「わたしたちの目には不思議に見える」という訳で「わたしたちの目」と言われている「わたしたち」とは「隅の親石」である民族のことです。そうであれば「不思議に見える」という訳よりも本来のヘブライ語の意味で「素晴らしいこと」と訳した方が良いでしょう。ギリシア語訳では「驚き」となっていますが、これも「素晴らしい驚き」を意味しています。捨てられた存在として希望がなくなっているところから神さまによる驚きの決定がなされる。これは「素晴らしい」ことと見える。そのような「わたしたち」は捨てられた存在として絶望していた人たちのことでしょう。詩編118:20において述べられているのは、神さまの救いの御業は素晴らしいということです。

わたしたちの間でも、「素晴らしい神さまの御業」を感謝するのは、捨てられて、苦しみもだえていた人たちでしょう。安穏と暮らしていた人たちには、さっぱり分からないものです。自分たちは苦しみを避けようとする。優しさばかり求めて、苦しみを与えて育ててくださる神さまの愛には気づかない。そのような人は「隅の親石」とされることはない。

この「隅の親石」がイエスさまのことであれば、イエスさまに従う民族もまた「隅の親石」の民ということになります。その民族のことが「相応しい実を結ぶ民族」と言われているのは、彼らが苦難を負ってもなお神さまの義しさを求め続けたからです。それはまた、神さまの選びによって神の国に根を張るようにされた苦難を生きる民族なのです。

一般的なわたしたちが求める神の国は、たとえで農夫が自分たちのぶどう園にしようとする意志と同じような世界です。自分たちのためのぶどう園にしたい。自分たちの希望が実現する神の国にしたい。それが人間の悪の現実です。アダムとエヴァが陥った自分の思いを実現しようとする世界です。神さまの世界に生かされているのに、自分の世界にしようとする人間。この世界はまた、バベルの塔の世界でもあるのです。その世界をバラバラになさるのが神の意志です。バラバラになることで、一人ひとりが神さまとつながることができるのです。

「わたしたちの目」という言葉を語っている人たちは神さまを信じている人たちです。しかし、自分たちは捨てられた石だと思っていた。ところが、神さまの最終的な決定として、隅の親石であることを知ったのです。彼らは、自分たちの目が何も見ていなかったことを告白しているのです。人間は信仰者であろうとも、自分の視点から見えるところで判断するということです。人間的な家造りが捨て去った石である自分たち。しかし、隅の親石とされた。家造りたちが考えていた家には必要がないと捨てられたのに、最後の最後になって、「あ、これが必要だったのだ」と家造りたちが気がつくのです。そのような捨てられた自分たちが最終的に完成させる石とされたのだと知るとすれば、それは驚きであり、素晴らしい喜びです。

それでも、人間が捨て去ったものを神が選ぶというわけではありません。人間が見ているところでの判断、見ている時点での判断はあくまでそのときの自分の都合に合う判断です。これが家造りたちの判断でしょう。しかし、そのような刹那的な判断とは違う判断、長い時間をかけてしか理解できない判断が神の意志だということです。人間の判断と神の意志とは根本的に違う。時間的にも空間的にも次元が違う。だからこそ、神が選ぶことは、わたしたちの目には驚きであり、素晴らしいものなのです。

このように考えてみると、神の国はわたしたちがこれこそ神の国だと思うものや形や場所や時間には存在していないということです。わたしたちが人間として持っている判断や先入見を捨てなければ見ることができない。それが神の国だということです。人間が実を結んで、神の国に入るのではありません。神の国に入っているから実を結ぶことができる。そうであれば、自分の価値観や先入見とは違う神の国を受け入れることはどのようにして可能なのでしょうか。人間が自分に絶望しなければならないということです。人間の絶望において神の働きが始まる。イザヤが預言しているのは、人間に絶望を与える神の言葉なのです。

神さまは人間に絶望を与える。人間の自己意志の絶望的な現実を見せる。イエスさまがこうおっしゃる通りです。「この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」と。「この石」とは、「隅の親石」のことですが、「隅の親石」としてイエスさまを選んだ神さまの意志そのもののことです。その石の上に落ちる人、その石がその人の上に落ちる人。その石との関係によって、どちらも「打ち砕かれ」、「押しつぶされる」。そのような神さまのお働きによって、人間としての意志を「打ち砕かれ」、「押しつぶされた」人間が神の意志に従うようにされる。

今日のたとえは、このたとえを聞かされている祭司長たちやファリサイ派の人々を救うためにイエスさまが語った裁きの言葉です。しかし、彼らは、反対にイエスさまを殺害する心になってしまった。「俺たちが押しつぶされることをたとえているのだろうが、そうはさせるか」と反発し、イエスさまを殺害することになった。イエスさまの言葉、神の言葉が彼らを頑なにする。それは、彼ら自身が自分の意志、自分の価値感に絶望したくないからです。神さまの裁きは、自分たちとは違う異邦人に下るのだと思っているからです。神さまの言葉を聞かなければならないのは、自分たちだとは思っていないからです。神さまの裁きの言葉を聞いても、あいつらのことを神さまはおっしゃっているのだと思ってしまうのです。わたしたちも同じです。神さまの言葉を聞くと言いながら、他の人が裁かれる言葉ならば「そうだそうだ。」と聞くでしょう。しかし、自分が裁かれる言葉は聞かない。これが、イザヤたち預言者が語った言葉を聞かず、彼らを迫害し、バビロン捕囚に至ったイスラエルなのです。このイスラエルと、わたしたちは変わりない人間であることを知る必要があります。変わりない人間であるならば、イスラエルと同じように聞く耳を持っていないのです。このわたしたちがキリスト者であるのかどうかを自分に問わなければならない。

「季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たち」とは、自分たちのことだと思うわたしたちは、本当に「季節ごとに収穫を納める」のでしょうか。むしろ、息子を殺害して、自分たちのぶどう園にしようとする農夫なのではないのかと自分に問うべきなのです。わたしたちも教会を自分のためのぶどう園にしていないかと問わなければならない。そのように自分に問う民に神の国は与えられる、とイエスさまはおっしゃっているのです。神の国が与えられるのは、神さまの言葉によって造り替えられた民です。わたしたちが神の国の中にしっかりと根を張って、神の国の実を結ぶ一人ひとりでありますように。神さまの力によってのみ、神の国の実を結ぶことができるという信頼を失うことがありませんように。