説教

「返すべきもの」

末竹十大 牧師

聖霊降臨後第21主日聖餐礼拝説教
マタイによる福音書22章15節-22節

わたしたちはこの世界をどのように理解しているでしょうか。もともと、わたしたちは神さまがお造りになった世界だとは考えていませんでした。学校でもこの世界がどのようにして出来上がったのかは教えてくれません。現在あるものがあるためには、何が必要であるかは教えてくれますが、現在あるものを創り出す力については教えてくれません。すべてのものには原因があるわけですが、原因を探そうとしても見つからないのです。もちろん、それが分からないからこそ、「神さま」という存在や力を思い描いてしまうのだとわたしたちは考えています。進化論が説明するのも、進化してきたであろうことは説明できても、その大元のものが如何にして生まれたのかは分からないのです。ですから、わたしたちが知っていると思っているのは、何か大元がある、すべてのものの原因があるということだけであって、その原因は何かを知ることはできないのです。すべてのものを造ったお方のうちに存在しているものは、そのお方の外に出ることができないので、そのお方を客観的に確認することができないからです。

 

今日の聖書では、イエスさまは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」とおっしゃっています。イエスさまは「皇帝のもの」を認めているのでしょうか。いえ、そうではありません。「皇帝が自分の肖像と銘を記して、自分のものだと主張しているのであろう。自分のものだと言うのであれば、皇帝に返しなさい。」。しかし、「それが神さまのものであると信じるならば、神さまに返しなさい。」ということです。ここで問われているのは、デナリオン銀貨は誰のものかということではないのです。「あなたがたは神さまの世界を信じているのか」ということです。これが、イエスさまが問うていることです。

 

こう問われた人たち、ファリサイ派やヘロデ派の人たちは、イエスさまが皇帝批判を行うだろうと考えていたのです。ところが、「あなたがたはどう判断するか」とイエスさまは問い返したわけです。あなたがたは神さまの世界を信じるのか、人間の世界を信じるのかと問われたようなものです。彼らは自分で判断するところに立たされて、イエスさまを訴える口実を見つけるどころか、自分たちの信仰を問われた。それで、イエスさまのところを離れて行った。みなさんは、このイエスさまの言葉を聞いて、どう思いますか。

 

イエスさまは「返しなさい」とおっしゃっています。「税金を納めなさい」とはおっしゃっていません。「返しなさい」と訳されている言葉は、「与え返す」ということで、自分が与えられたものを与え主に返すということです。ですから、神さまから与えられたと信じるならば、神さまに与え返すでしょう。人間から与えられたと思うならば、人間に返すでしょう。イエスさまは税金の問題を論じているのではなく、ものそのものの根源を問うているのです。あなたはものそのものの根源に従っているのかと。

 

イエスさまを訴える口実を得ようとした人たちは、自分たちは税金を納めているのに、その正当性をイエスさまが否定するだろうと考えたのです。なぜなら、彼らもこの世界を支配しておられるのは神さまだと信じていたからです。そして、この世界のものはすべて神さまのものだと信じていたのです。それなのに、神さまに返すのではなく、皇帝に返している、税金として。もちろん、税金は皇帝に返すものだとは彼らは考えていません。皇帝が、自分たちを支配して、権力で税金を納めさせていると考えています。イエスさまは、そのような人間の顔色を伺って、物事を判断するお方ではないということも知っている。だから、税金を納めなさいと言うはずはないと思っている。自分たちもそう思っているけれど、言えないでいる。しかし、イエスさまならば顔色を伺うことなく、義しいことを言うであろうと思っているのです。そして、義しいことを言えば、皇帝を否定したということで、訴えることができるとも考えていた。ところが、イエスさまは反対に彼らが判断する材料を提供した。根源的なところに立って生きるのであれば、すべては神さまのものを使わせてもらっているのだから、神さまに返すべきものだと判断できるという材料を提供した。イエスさまに言わせようとしたことを、自分たちが言わなければならないことになってしまった。彼らは、困って、逃げ出したということです。

 

イエスさまが見ておられる世界を彼らは根源的に見てはいなかったのでしょうか。信じる者は、信じたように生きるはず。信じたように生きることがないのであれば、信じてはいないことになる。わたしたちはどうでしょうか。イエスさまの言葉を聞いているときは、「そうだ。そうだ。」と思う。しかし、礼拝が終われば、信じたように生きることはない。この世と同じように、人の顔色を伺う。そして、教会もこの世と同じになってしまう。これがわたしたち人間です。本来ならば、わたしたちキリスト者は、この世の根源的なところから生かされていることを知っているのですから、根源的に考えるはずなのです。しかし、そうはならない。人の顔色が気になる。信仰はあるけれども、それは日曜日だけにして、他の日はこの世の論理で生きなければ生きていけないのだと思ってしまう。これが、キリスト者と言えどもこの世と同じようになってしまう原因なのです。ここから脱け出すには、どうしたら良いのでしょうか。

 

脱け出すには、ただキリストを信じて、排除されても、迫害を受けても、キリストに従うことしかないのです。キリストに従うならば、自分が生かされている根源的なところから生きるはずなのです。それができないとすれば、わたしたちはこの世と同じです。脱け出したはずのこの世と同じなのです。それが人間だと開き直るか。そうならないように生きようとするか。いずれにしても、自分の意志の力でどちらかになることだとわたしたちは思ってしまいます。それができない自分を認めたくないからです。イエスさまを陥れようとした人たちも、自分ができないことを認めたくないので、イエスさまのところを離れたのです。「こんなことを言う人に、二度と関わらん方が良いぞ。とばっちりを受けたくない。」と、彼らは考えたのです。ということは、この世とイエスさまを天秤にかけて、この世を選んだということです。みなさんは、どうでしょうか。

 

イエスさまを信じてついていけば、良いことがあると思いますか。むしろ、困難がやってくると思いますか。そのように考える場合、わたしたちが考えているのは、わたしにとっての良いことであり、わたしにとっての困難です。どちらも人間に顔を向けている考えです。イエスさまについていけば良いことがあるという考えも、人間的な良いことでしょう。困難も人間的な困難です。どちらにしても、わたしがどう感じるかです。神さまがどのように見ておられるかは関係ないのです。また、神さまがそのどちらをも起こしておられるとは思っていません。それで、わたしが上手く立ち回れば、良いことが起こるし、下手に立ち回ると悪いことが起こると考えます。こうして、わたしたちキリスト者であろうとも、自分で何とか上手く生きていくことを考えるのです。それが教会の中でも起こってくる。これがこの世の教会です。キリストは、わたしたちの罪を負って、十字架の死を引き受けてくださった。このお方にすべてを負っているわたしたちなのです。そのお方を信じるということは、復活を信じることです。死んで終わりではないと信じるだけではなくて、義しいことは神さまが認めてくださると信じることです。

 

たとえ、この世で迫害され、排除されるとしても、最終的に神さまが義しいことをなしてくださると信じる。これは、終末を信じることでもあります。終わりの日に神さまの前に立つ自分を、今生きるということです。これがキリストに従うことだと聖書は語っているのです。しかし、このように生きるのは大変です。普通の人間ならば、逃げ出したくなります。イエスさまの許を離れていったファリサイ派、ヘロデ派のたちと同じです。それで良いのかと、一人ひとりが問われている。今日のイエスさまはわたしたちにも問いを投げかけておられる。あなたは、皇帝のものだと信じるのか、神のものだと信じるのか。どちらに返すべきなのか。わたしたちは分かっている。しかし、怖い。それで、人の顔色を伺う。キリスト者と言えども、同じ。ルターが言うように、「義人にして罪人」ということでしょう。

 

キリストを信じているけれど、人間の顔色が怖い。これが「義人なのだけれど、罪人として生きてしまう」ということです。このようなところから脱け出すことができないのが、わたしたちです。このわたしに絶望しなければ、変わることができない。絶望したくない。何とか、自分でイエスさまに従う道を歩めるはずだと思いたい。わたしたちが自分に絶望することを避けている限り、人間の顔色を伺い続けるのです。この世で、失敗したと思われたくない。居場所がなくなると困る。そうして、わたしは罪人として生きる。このような罪人を救ってくださったお方に信頼して、ついてきたはず。それなのに、意気地がない。この意気地なしのわたしすべてをイエスさまに預けて、生きていくのが、キリスト者です。礼拝しているときだけではなく、この世で生きているときにも、イエスさまにすべてを預けて生きているのか。今日、イエスさまはわたしたちに問いかけてくださっています。

 

このイエスさまの思いを、まっすぐに受け止めるならば、わたしはイエスさまに従って行くでしょう。排除されることも恐れることはない。迫害されることも恐れることはない。批判されても、イエスさまを信じてついていく。これがキリストのものとされた一人ひとりです。すべては神さまがわたしに与えてくださったもの。そのすべてを神さまにお返しする。あなたは、イエスさまの言葉を聞き、イエスさまの十字架を仰いでいる者です。この十字架を与えてくださった神さまにすべてを返していく。それができない自らの不甲斐なさを認めて、わたしをお救いくださいと祈りましょう。イエスさまはあなたに御顔を向けてくださいます。あなたをご自身の力のうちに生かしてくださいます。このお方のものとして生きていく一人ひとりでありますように。