2026年10月25日(宗教改革主日)
マタイによる福音書11章12節-19節
「知恵の正しさは、その働きによって証明される。」とイエスさまはおっしゃっています。この言葉は、働き、行いによって証明される正しさを述べていますので、行為義認ではないかと思えます。しかし、「知恵の働き」は人間の行為ではありません。「知恵が働いて、人間の行為を促すこと」ですから、「知恵の働き」と言われているのです。この「知恵の働き」というものは、目に見えないもので、人間のうちに働いて、その人が必然的に動くように働くことです。知恵が働くのであって、人間が自分の計画や思惑によって働くのではありません。今日の第二日課であるヨハネの黙示録が語っているように、「神を畏れ、その栄光をたたえなさい。」と人間たちを促すのが「知恵」です。もちろん、聖書が語っている「知恵」というものは、神の知恵です。ですから、「知恵」は神の栄光を讃えるように働くのです。だからこそ、知恵は義しい。当たり前です。
人間は、見た目だけで判断します。だからこそ、洗礼者ヨハネに対しても義しい判断ができないし、イエスさまに対しても義しい判断ができない。そこに働いているのは神の「知恵」ではなく、人間の思惑であり、人間の知恵です。人間の思惑や知恵は義しい判断ができない、あるいは義しい判断を妨げるということです。それなのに、どうして人間は義しくない人間の知恵を大事にするのでしょうか。自分を変える必要がないからです。自分を変えることなく、上手くやっていく方法を求めるからです。
これまでやってきたから、これまでのようにすることで安心できる。安心することで、自分や自分たちを肯定できる。自己肯定を離れなくて良い。これまでやってきたことが間違っていたとは思いたくない。これが、わたしたち人間を縛っている慣習というものです。慣習は、神さまに栄光を帰するには至らない。うすうす感じてはいても、人間は上手くやって来たと思っていることを変える勇気がないのです。究極的には、自分を否定できない自分がいるのです。これが、マルティン・ルターが直面した人間の罪の問題です。
ルターは、修道院に入って、懸命に修行しました。その修行の動機は、自己を否定することを否定することでした。自分の選択を否定することができなくて、修行に励んだのです。シュトッテルンハイムへの道中、落雷に遭ったルターは、守護天使聖アンナに誓います。「わたしは修道士になります」と。父が願った法律家の道ではなく、思わず誓ってしまった修道士の道。それゆえに、なんとしてもその道を完成させなければならないと考えたことでしょう。しかし、その誓いは神の意志から遠く離れていたと、後に、ルターは父に宛てた手紙に記しています。「なぜなら、私の誓約は糸屑にも値しないものだったからです。つまり、私はそのことによって父の権威と神の戒めのみこころとから離れていたからです。いや、それは不信仰のものですらありました。」と述べています。この手紙を書いたとき、ルターは自分の意志を否定したと言えます。
修道院で、どれだけ頑張っても自己肯定には至らなかった。最終的には、自己否定できない自分に気づいてしまう。自己否定できない自分を認めることが結果的に自己否定となる。パウロが言う通り「人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。」ということでしょう。ルターの誇りは取り除かれてしまった。「どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。」とパウロは述べています。信仰の法則とは、信仰の「律法」が原文です。
行いの律法ではどこまでも行いによる自己肯定を求めてしまう。その当時、ルターが教えられていたのは行いの律法だったのです。しかし、信仰の律法であれば、もはや自己肯定を求めようもない。自己否定できない自分を見詰めることになる。自己否定できない自分がいることを認めるのは信仰の律法なのです。自己否定できない自分を認めるに至ったことで、ルターは自己への絶望に至った。それは、ルター自身が自己肯定を求め続けて頑張った結果でしょう。ここまで求め続けない人には至ることができないとも思えます。生半可な、口先だけの自己否定ではないのです。自分の魂の奥底にある自己肯定を求めるわたしを否定するのです。魂の根底に至っていない人には、ルターが立っているところは分からないことでしょう。
このように聞くと、徹底的に頑張れば目的に至ると思えてきます。そう考える人には、ルターが至った魂の根底は分かり得ない。なぜなら、自分で徹底的に取り組むことがなく、根底的に考えることがない人には至ることができないからです。もちろん、外面的な事柄に努力して、頑張ることはできるでしょう。しかし、自分自身の根底に何があるのかを問うことはない。単に、外面的に頑張れば良いのだという安易な理解しかできないからです。自分はこれだけ頑張っていると思っているのですが、苦闘するような精神は持ち合わせていない。
そのような人たちは、根底的に生きることはなく、漫然と慣習的に生きているのです。そのような人もそうでしかないということを変えることはできません。いつまでも漫然と生き続けることを変えることができない。漫然と生きているということも分からない。そのような自分を変えることができないままに生きている。そのような自分であることを認めることができるならば、違うかもしれません。それも、その人に与えられているものであって、人の真似をしてもどうにもならないのです。人の真似をすることを「慣習に従う」と言うのです。
「型に入って型を破る」という言葉があります。日本画家の平山郁夫が語った言葉です。「型に入る」というのは、「型」が現れてくる「型の根底」にまで「入る」ということです。その根底に至ったとき、「型を破る」ことができる。それは、「型」という外側に現れたものにこだわることなく、「型」が現れてくる根底的なものを自分のものとすることです。この根底的なものを「型の精神性」と誰もが考えるでしょうが、「精神性」とも違います。「型」が現れるように働いている「知恵」のことです。それはまた、自分の精神性ではなく、それまでの幾世代の人たちを促し、動かしてきた「知恵」に至ることです。ですから、「知恵」が自分を動かしてくれることを体得する。その「知恵」が自分を動かしていることを知る。そこに至ったとき、慣習的な、表面的な「型」に縛られていた自分を知り、「型を破る」ことが可能となる。そこから新たな自分の「型」を作ることにもなる。これが、平山郁夫が述べている事柄です。
わたしたちは「宗教改革」と言いますが、西欧語ではRe-formationと言います。Reという接頭辞は、「再び」と日本語訳されます。ということは「再形成」です。それまでの在り方を解体して、新たな形に再形成することが、宗教改革のもともとの意味です。そうであれば、宗教という型を改革したというよりも、宗教の根底にあるものに至って、根底に動かされて、それまでの慣習的行為を破壊し、再形成したのがルターだということになります。
わたしたちルーテル教会は、このような信仰の律法に立っている教会です。ですから、慣習に捕らわれることなく、常に根底的なところから新たに再形成するのが、ルーテル教会であると言えます。しかし、この世に現れているわたしたちの教会という形を解体すると、わたしはどこで信仰を守ることができるのかと思ってしまいます。そうです。わたしたちも、この世の形である教会に縛られているのです。教会とはいったい何かを問うことなく、これまでやってきたことを漫然と継続していれば教会であると思い込んでいます。果たして、そうなのでしょうか。ルターが辿り着いたところに、わたしたちは至っているのでしょうか。ルターが至ったところを表面的に真似ていれば良いのでしょうか。ルターが至った根底に、一人ひとりが至る必要があるのではないでしょうか。慣習に縛られる生き方から、自己否定できない生き方から解放される必要がある。そう教えてくれているのが、ルターが至った信仰の律法なのです。
宗教改革主日の今日、わたしたちは今一度ルターが苦闘したことを思い起こしましょう。ルターのように、自らの根底的な土台である神の栄光を誉め称える信仰の知恵の働きに至るように一人ひとりが取り組んで行きましょう。自己否定できないわたしであることを認めるわたしに至るためには、神の言葉、神の知恵が必要なのです。これが、わたしたちルーテル教会が伝えている福音です。わたしにできないことをなしてくださる神の言葉こそが、わたしを造り替えてくださる神の賜物です。今日から、新たに再形成する生き方、信仰の根底を求めて歩み始めましょう。

