2026年7月19日(聖霊降臨後第8主日)
マタイによる福音書13章24節-30節、36節-43節
今日のイエスさまのたとえは「毒麦のたとえ」と言われています。このたとえは、終わりの日、終末についてのたとえです。このたとえを読むと、わたしは芝生の手入れをしていることを思い出します。芝生に雑草が次々に生えてくると、すぐに取らなければならないと思い、小さいうちに取ります。それは、根が張ってきて、雑草が芝生を押し除けて、全体に広がっていくからです。雑草は強いので、放っておくとどんどん広がっていきます。ですから、小さなうちに取り除くことが必要です。ここで僕たちが「取り除きましょうか」と言うのも頷けます。しかし、主人は「収穫まで待て」と言うのです。これは、わたしたちの世界とは違う考え方です。
収穫まで待っていたら、雑草だらけになって、芝生は無くなってしまいます。そうなったら困るので、小さいうちに取り除く。イエスさまのたとえを聞くと、これをしてはならないということだろうかと頭を抱えてしまいます。しかし、イエスさまがおっしゃるのは、この世の悪と戦うなということでしょう。わたしたちが生きているこの世界においても、この世の悪と戦っている人たちがいます。悪だと思う存在を取り除けば、良い世界になると思う人は多い。しかし、そうではない世界が天の国だとイエスさまはおっしゃっているわけです。
イエスさまの時代にも、イスラエルを再興するために、自分たちを支配しているこの世の王国を滅ぼす活動をしようとした人たちがいました。彼らは、自称メシアでした。イエスさまもまた、周りから、それらの人たちの一人だと思われてもいたのです。ところが、イエスさまはこのたとえのように、毒麦をまず取り除くことはなさらなかった。むしろ、良い麦が良く育つように励ましてくださった。最後の審判の日には、毒麦がまず刈り取られ、火で焼かれる。そのあとで、良い麦が集められて、倉に収められる。そのように、イエスさまはこのたとえで語っておられる。イエスさまは、このたとえのように、良い麦である御国の子らを誤って抜かないことを優先なさった。そして、最後の審判の日を待ち望むように勧めてくださった。これが、このたとえでイエスさまが伝えたいことでしょう。
そうすると、このたとえを聞かされている人は、自分が毒麦を取り除こうとしている人だということになります。そのような人たちは、イエスさまがおっしゃるように、良い麦も一緒に抜くことになる。なぜなら、自分に賛同する人を良い麦だと思い込んでいるからです。自分の考えに賛同する人は良い麦。自分の考えに賛同しない人は毒麦。こう考えるのが、わたしたち人間です。それは、自分の立場が良い立場だと思っているからです。わたしの中にも、毒麦が入り込んでいるとは思わないのです。このように考えてみると、今日のイエスさまのたとえは、わたしの心の中に入り込んでいる毒麦の話なのです。
敵が毒麦を蒔いた意図は、良い麦も一緒に取り除くことになることを見越して蒔いたと言えるでしょう。それは、わたしの心に蒔かれた神の言葉を受け取る御国の子らという良い麦と、自分が義しいと思い込むこの世の子らである毒麦をたとえているようです。そうであれば、恐ろしいことです。敵は、わたしの心に毒麦を蒔いている。わたしがこの世の良い麦を取り除いてしまうように、毒麦を蒔いている。だとすれば、わたしの心にある「これが良いことだ」と考える判断を「良い麦だ」と思い込んでいるわたしの心が間違っていることを教えてくださっていることになります。
わたしたち人間は、自分の立場が義しいと思っています。その立場から見れば、違う立場は毒麦に見えるということもあるでしょう。そうして、毒麦を取り除くために、戦争が行われることになる。現代でも行われている戦争は、毒麦退治でしょう。しかし、イエスさまは最後の審判まで待つように勧めておられる。先走って、自分が義しいかのように毒麦退治に奔走することの悪を教えてくださっている。聖書が語るように、人間の心の思いは幼いときから悪であるというのは義しいのです。義人はいない、一人もいないということも義しいのです。そのような人間が義しいことを行っていると思うことが毒麦の働きだということになります。
「恐れるな、おびえるな。 既にわたしはあなたに聞かせ 告げてきたではないか。」と第二イザヤも預言しています。神さまは、「恐るな、おびえるな」とおっしゃる。わたしたちは恐れるがゆえに、毒麦退治に奔走する。しかし、毒麦は終わりの日には、神さまが告げてきた通りになると、信頼していなさいと、イエスさまは教えてくださっています。
この世では、芝生が雑草に侵食されて芝生ではなくなることは明らかですが、人間そのものの心の土地には良い麦と毒麦が蒔かれているということも真実でしょう。そう考えてみれば、わたしが良い麦と毒麦を分けることができるのかと言えば、そうではないのです。わたしの価値観によって分けることになるのですから、わたしにとって良いと思えるものが残る。それは毒麦かも知れません。また、わたしには毒麦としか思えなかった良い麦も毒麦と思い込んで一緒に抜いてしまうということも起こるでしょう。わたしが分けようとする心そのものが毒麦の働き、敵の策略にはまっているとも言えます。
この世では、味方だと思っていた人が、裏切ることもあります。人間は世の流れに乗るために、裏切ることもあるのです。どこにでも、裏切りはある。しかし、イエスさまは裏切りに協力するかのように、ヨハネ福音書ではユダに対して、あなたがしていることをしなさいとおっしゃった。良い麦と毒麦の選別が行われるのは、最後の審判の日であって、わたしがこの世で分けることではないということを、イエスさまは生きてくださったのです。わたしたちにはできないことを生きてくださった。このたとえのように生きてくださった。それがイエスさまです。
良い麦と毒麦を分けるのはわたしではない。分けてくださるのは、神さま。神さまより先に分けてしまうと、人間である自分の味方、自分の仲間を増やそうとする心に支配される。そこに毒麦が働いている。そのようにイエスさまの言葉を聞く人は、自分自身のうちに良い麦と毒麦とが蒔かれていることを知る人でしょう。もちろん、みなさんも、自分のうちに毒麦が入り込んでいるかも知れないと思うことがあるでしょう。しかし、この世では、誰もが自分は被害者で毒麦に浸食されていると思っています。そう考えてみれば、みなさんは、この世とは反対の世界に生きているということです。
イエスさまのたとえが見せてくださる新しい世界。それは、この世とは違う世界です。雑草を取り除く世界とはまったく反対の世界。それが、今日イエスさまが見せてくださっている世界、神さまの世界、天の国です。そうであれば、イエスさまが最後におっしゃっている、父の国で太陽のように輝く義しい人とは、この世ではどのような人なのでしょうか。良く考えてみる必要があります。
使徒パウロも第二日課でこう言っています。「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。」と。毒麦退治は、肉の仕業なのです。肉の仕業は人間的に振る舞うことです。反対に、霊によって生きることは、神さまに信頼して生きることです。
確かに、毒麦退治をしないイエスさまの行き着く先は、十字架でした。毒麦退治をしなかったために、十字架に架けられた。このお方が今日のたとえを語ってくださっている。わたしの心に蒔かれた神さまの良い麦が育つために、イエスさまは十字架を引き受けてくださった。今も十字架から語り続けておられる。この十字架の言葉を聞き続ける者は、良い麦を抜いてしまう自分を見るでしょう。
イエスさまの十字架は、わたしたちが終わりの日に選り分けられる良い麦として成長するために、神さまが起こされたものなのです。十字架によって救われたわたしたちは終わりの日の神さまの選り分けに信頼して生きていく存在なのです。あなたのうちに蒔かれた心の麦が育ち、神さまの良きお働きがあなたの心の中で続けられますように。終わりの日に向けて救われたわたしであることを感謝して、イエスさまの言葉に信頼して歩み続けて行きましょう。わたしの心の麦が豊かに実り、神さまによって刈り取られる日を待ち望みながら。
