2026年11月1日(全聖徒主日)
マタイによる福音書5章1節-12節
本日は全聖徒主日です。すべての聖徒たちを覚える日ですが、この聖徒たちという表現が語っているのは、神のものとされた人たちという意味です。神のものとされて、神のものとして生きている人たちですので、天上に生きている人たちと地上に生きている人たちの両者を含んでいます。わたしたちも、神さまのものとして生きているならば聖徒です。聖なるものとは、神さまのものという意味だからです。
全聖徒主日に覚えるのは天に召された人たちだけではなく、キリストのものとされた一人ひとりを覚える日なのです。天にある人たちも地にある人たちも共にキリストを信じる民として聖徒たちであることを覚えるのがこの日です。ただし、天にある人たちは「死んだ者は罪から解放されている」(ローマ6:7)とパウロが言うように義とされている人たちですから、地上にあるわたしたちのように、義人と言いながら罪人が抜けきらない者たちとは違うのです。
さて、この聖徒たちの日に読むマタイによる福音書では「心の貧しい人たち」、「悲しんでいる人たち」、「柔和な人たち」、「義に飢え渇く人たち」、「憐れみ深い人たち」、「心の清い人たち」、「平和を実現する人たち」、「義のために迫害される人たち」と言われています。八つの幸いが述べられているのですが、この人たちは普通の意味では「不幸な人たち」だと思えます。どうして、イエスさまはこのような人たちが「幸い」だとおっしゃるのでしょうか。ギリシア語では「祝福されている人たち」となっています。神さまの祝福を受けている人たちがどうして不幸に思える状態に置かれているのか。このような状態に置かれている人にしてみれば、神さまは義しいお方なのだろうかと思えてしまうでしょう。そのような人たちを救うのが神さまではないかと思えます。この人たちも、そう思っていたことでしょう。その苦しみと疑問の中で、イエスさまの許へとやって来たのです。
このような人たちのことを、第一日課のヨハネの黙示録ではこう述べています。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。」と。「苦難を通ってきた人」と言われていますが、「苦難からやって来た人」という意味です。「苦難から生まれた人」と理解しても良いでしょう。苦難を通して、生まれた人です。わたしたち人間が生まれるのは、苦難を通って生まれるものです。苦難を通らないいのちはないのです。しかし、わたしたちは苦難を避けようとします。苦難はできる限り、無い方が良いと思います。楽に生きたい。平穏に生きたい。邪魔されずに生きたい。そういう思いをもって、苦難を与える人たちを避ける。平穏を妨げる人たちを排除する。邪魔する人たちに対抗する。こうして、わたしたちは争いによって、楽を得、平穏を守り、邪魔のない世界を築こうとします。わたしの平穏によって、邪魔される人が生まれるのです。わたしたちは自分の平穏のために戦う。わたしたちの世界に争いが絶えないのは、このようなわたしの内なる思いがあるからです。
イエスさまの前に集まってきた人たちは、この世の中で貧しさに追いやられ、悲しみを与えられ、人間に翻弄され、義しさを求め、他者の苦しみを理解する清い心で生きようとして、平和を実現したいと願う。しかし、義しいことを求めることで、迫害されることになっている。そのような人たちが、イエスさまの許にやって来たのです。
わたしたちが教会に来るようになったのも、同じような苦しみを抱えていたからではないでしょうか。わたしたちは、義しく生きることを求めてきたのではないでしょうか。イエスさまの言葉を聞き続けて、イエスさまは義しいお方であり、嘘をつかないとわたしたちには分かったのではないでしょうか。そのお方がおっしゃるのです。霊において貧しいあなたがたは祝福されていると。この世では、地位のある人たちに支配され、苦しめられている。しかし、あなたがたは「霊において、貧しくされているから、祝福されている。」とイエスさまはおっしゃった。彼らが苦しんでいることの中に、神さまの祝福があると教えてくださった。この世では、彼らの苦しみはなくならないでしょう。しかし、その中で、苦しみを引き受けて生きて行く力を、イエスさまからいただいた。これが、イエスさまの許に集められた人たち。「苦難からやって来た人たち」、「苦難から生まれた人たち」。わたしたちもまた同じです。そうであれば、イエスさまの言葉が語る通りに、「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」と最後におっしゃる言葉のように生きることになる。黙示録が語るように「苦難から生まれた人」として生きるとき、天においては大きな報いがあると信じて、苦難を引き受けて生きるでしょう。そうして、苦難から生まれることになる。そのとき、わたしたちは「その衣を小羊の血で洗って白く」された者として生きる。
小羊の血で衣を洗うということは、小羊の血を注がれることです。わたしのために、小羊が血を注いでくださる十字架の下に立つことです。それが、苦難を引き受けることでもあるのです。イエスさまがわたしのために十字架の苦しみを引き受けてくださったお心に従って、わたしが苦難を引き受けて生きるとき、「苦難から生まれる」わたしにされる。苦難を避ける人は「苦難から生まれる」ことはありません。苦難から生まれることのない人が、他者に苦難を押しつける。
神さまのものとされた人たち、聖なる者たち、聖徒たちは苦難を引き受けて生きてきた人たちです。今、わたしたちの目の前にはいないのですが、神さまの許に生きています。そして、わたしたちもまた、その人たちが神さまの前に生きたことを覚えながら、歩み続ける。わたしたちもまた聖徒たちですが、未だこの世にあって苦難の中で生きざるを得ない者たちです。先に天に召された聖徒たちのことを思い起こしながら、この世にあって苦難を引き受けて生きて行く。神さまのものとされる人は、苦難を引き受ける人です。神さまの御子がわたしのために苦難を引き受けてくださったと信じる人ですから、自分も御子に従って生きようとする人です。そのように生きた人たちの生き方を思い起こし、新たに生きることが、全聖徒主日を守る意味です。
「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。」とヨハネの手紙に言われている通り、わたしたちは今神の子として生かされています。生かされているわたしが、御子に似た者となるように、この地上にあって生きていくのです。その歩みは、当然苦難の道です。この世で上手く立ち回ることを考える人ではないのですから、義しく生きる道には苦難があることは当然です。マルティン・ルターも九十五箇条の提題の最後の95でこう言っています。「そしてキリスト者は、平安の保証によるよりも、むしろ多くの苦しみによって、天国にはいることを信じなければならない。」と。ルターも苦難を負わされました。迫害も受けました。その始まりであった九十五箇条の提題において語ったことが、そのままルターに降りかかったのです。ルターは、この言葉をそのままに生きた。そのように生きる力の源泉は、今日のイエスさまの言葉です。
イエスさまも「迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる」ことを生きた。神さまの義しさを宣べ伝えたお方が、迫害を受け、苦しめられ、十字架の死を負わされた。ご自身が語った通りに生きたお方がイエスさまです。苦難は必然であることを生きたイエスさまが、今日の言葉を語っておられる。この事実をわたしたちはまっすぐに受け止めなければなりません。そして、イエスさまが「喜びなさい。大いに喜びなさい。」とおっしゃるように喜ばなければならないのです。
喜ぶことなどできないときに喜ぶ。それがキリスト者であり、神の祝福を受けている人だと、イエスさまはおっしゃっています。貧しさ、悲しみ、苦難、迫害が、わたしを神さまのものとして生み出す源泉であることを改めて受け止めましょう。この世では、苦難も悲しみも迫害も貧しさもなくなりません。しかし、その苦難を通って、天の国に生まれる者とされていることを喜びましょう。苦難を負わされることは、神さまの祝福であり、天の国に生まれる者として神さまがあなたを受け入れてくださっていることなのです。この恵み深い神さまの御心を注がれているわたしであること。その道を通って、天の国に生まれている聖徒たちがいることを心に刻みながら、歩み続けて行きましょう。主は、あなたを喜び迎えてくださいます。

