2026年8月2日(平和主日)
ヨハネによる福音書15章9節-12節
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」とイエスさまはおっしゃいます。イエスさまの掟は、「互いを愛する」ことだと言います。その掟を守る人は、イエスさまの愛のうちに留まっているともおっしゃっています。「愛のうちに留まる」、「互いを愛する」ということは、どのようなことでしょうか。
イエスさまの愛のうちに留まるということは、自分がイエスさまに愛されていると信頼して生きることです。その愛は、アガペーですから、わたしが愛されるに相応しい人間だから愛されているのではありません。むしろ、愛されるに相応しくない人間も愛するのがイエスさまの愛です。だとすれば、わたしがイエスさまに愛されているということは、わたしはイエスさまの愛に相応しくない存在にも関わらず愛されているということになります。
では、イエスさまが、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。」とおっしゃる言葉はどうでしょうか。イエスさまは父なる神さまに愛される資格のないお方なのに愛されてきたということでしょうか。おかしいですね。やはり、愛されるに相応しいから愛されたのではないかと思います。しかし、この言葉は、相応しい愛を述べているのではなく、情愛を述べているのでもありません。父なる神さまは相応しさとか相応しくないという理由で、愛したり、愛さなかったりするお方ではないということを述べているのです。
普通の親子関係においては、自分のこどもたちを愛するとき、自分の言うことを聞く良い子だから愛するわけではありません。その子がどんなに反抗的であろうとも愛する。その子が言うことを聞かないとしても愛する。ただ、愛するのです。ある意味では、自分のこどもだから愛するに相応しいと考えることもできます。しかし、その愛は、自分が与えただけであって、その愛に見返りを求めるわけではありません。父なる神さまに愛されたイエスさまはわたしたちを無条件で愛してくださった。そのように互いを愛しなさいとおっしゃっている。
そうすると、わたしたちが愛していると思っていることとはまったく違ってきます。イエスさまが愛してくださった愛の中に留まるということは、無条件で愛されているわたしであることを知ることでしょう。無条件に愛されるということは、わたしのために十字架を負ってくださったイエスさまに愛されていると信じる信仰なのです。そのような愛の中に留まっているならば、イエスさまの掟である「互いを愛する」ことも可能となるとイエスさまは教えてくださっています。
しかし、イエスさまがあえてこう言うということは、弟子たちは「互いを愛する」ことができていないということです。あえて掟として与えるということは、掟を与えなければ「互いを愛する」ことに至らないということではないでしょうか。確かに、わたしたちはイエスさまが愛してくださったように、他者を愛することができません。無条件では愛せない。見返りを求めるだけではなく、「この人なら愛せる」とか「この人は愛せない」と思うものです。「敵を愛しなさい」と言われると、わたしを排除し、滅ぼそうとする敵を愛せるはずがないと思ってしまいます。そのようなわたしは、あえて掟がなければ、イエスさまの愛のうちに留まることができないということでしょう。
この言葉を聞くと、愛せないわたしはイエスさまの愛のうちに留まっていないということになると思えます。人を分け隔てするわたしはイエスさまの愛のうちに留まることなく、わたしが愛せるかどうかに留まっている。このようなわたしをイエスさまは愛してくださるのか。愛してくださるのです。そのようなわたしだからこそ、イエスさまの愛が必要だと愛してくださる。それがイエスさまの十字架です。では、愛せないわたしを愛してくださるイエスさまの愛のうちに留まっていれば、良いのでしょうか。やはり、掟を守る必要があるのでしょうか。あります。掟は、守るように与えられたものです。しかし、わたしにできていないとすれば、イエスさまの愛の中にわたしは留まっていないのです。そのわたしが、イエスさまの愛のうちに留まることができるか、否か。互いを愛することができるか、否か。それはあくまでイエスさまの愛の働きなのです。そして、イエスさまの愛を素直に受け取っているかどうかなのです。
わたしが、互いを愛することができていないとき、わたしは愛される資格がないということではありません。イエスさまは分け隔てなさらない。ただ、イエスさまの愛のうちに留まって欲しいだけ。そして、イエスさまの愛がわたしを愛する者にするように働くことを受け入れて欲しいだけ。そのように、わたしを愛してくださったのがイエスさまなのです。この愛に応えることで、わたしは愛される資格を得るわけではありません。愛されている者として生きて欲しいというイエスさまの愛が変わらずにわたしに注がれているだけです。この愛の中に包まれていることを素直に受け取るとき、わたしは互いを愛する者とされていくでしょう。そのような者として、わたしを作ってくださるのがイエスさまの愛なのです。
そのときには、イエスさまはわたしのうちで喜んでおられる。その喜びが、わたしのうちに満ちていく。それはわたしが喜ぶわけではない。イエスさまが喜ぶ。イエスさまの喜びに満たされたわたしを生きる人は、イエスさまの喜びがわたしの喜びとなり、喜びをもって自然に愛する者として生きるのです。
平和主日の今日、わたしたちはイエスさまの愛の中に包まれているわたしを覚えましょう。わたしが愛されたのは、わたしの相応しさによるのではなく、無条件で愛されたことであると知ることが大事なことです。この世の平和は、自分の言うことを聞く人と共にいることで平和だと思うのです。このような平和を求めるのが人間です。だから、愛せない人を攻撃してしまう。愛せない人を排除してしまう。愛せない人の足を引っ張ってしまう。こうして、争いを生み出すのがこの世の平和です。
平和主日は、イエスさまの愛の主日。無条件に与えられている愛の主日。ここに留まることができる人はいないことを覚える日。それでもなお、イエスさまに愛されていることを宣言する日。これは、イエスさまが宣言しておられる言葉。そして、わたしたちが互いを愛するように生きて欲しいと掟を与えてくださったことを覚える日。イエスさまの愛に応えていないわたしを覚える日。そのようなわたしを造り替えてください、と祈る日。この世に争いがあっても、愛することが可能となる日が来たることを祈り求める主の日。
イエスさまの愛が、わたしを造り替えて、互いを愛する者としてくださる。わたしの中にある争いの心がイエスさまの愛に包まれるならば、憎しみも悲しみも父なる神さまの愛の中で溶かされていく。イエスさまがおっしゃる言葉は「あなたがた」に向けられています。「あなたがたは互いを愛しなさい。」と言われています。イエスさまの愛を注がれているのは「あなたがた」なのです。一人のわたしではない。わたしたちは、イエスさまに愛されている「あなたがた」です。イエスさまの愛に留まるのも「あなたがた」です。「互いを愛する」のも「あなたがた」です。「あなたがた」がイエスさまの羊の群れです。
ヨハネ福音書21章では、最後にペトロに三度「わたしを愛するか」とイエスさまは聞いています。その度に「わたしの小羊を食べさせなさい」、「わたしの羊を牧しなさい」、「わたしの羊を食べさせなさい」と言われています。小羊を食べさせ、成長した羊を牧し、また食べさせる。これがイエスさまを愛することだと言われています。イエスさまを愛すること、そして互いを愛することは、イエスさまの羊である羊たちが互いにみことばを食べさせ合うことです。イエスさまの羊は、旧約聖書の日課のミカや同じ信仰を生きていたイザヤが預言した「残りの者」です。ヨハネ福音書では、排除され、迫害された羊たちが「あなたがた」です。それは「残りの者」と同じなのです。わたしたちは、イエスさまの羊として「互いにみことばを食べさせる」ように生きて欲しいと願われている。互いにみことばを食べさせ、みことばに結ばれ、イエスさまのみことばの愛の中で生きていく羊の群れ。一人ひとりが、この群の中で、みことばに養われていきますように。
