説教

「隔てを越える信仰」

末竹十大 牧師

2026年8月16日(聖霊降臨後第12主日)
マタイによる福音書15章21節-28節

世の中には「隔て」というものがあります。国という隔て。地域や言語の違いによる隔て。考え方の違いという隔て。世界にあるさまざまな隔て。この隔ての壁によって、人間同士は分断されています。人はグループに入ることによって、分断を作ります。こちらのグループとあちらのグループが対立すると、どちらのグループも相手のグループの人たちを入れないということになります。それぞれのグループが互いに干渉することなく、認め合っていれば良いのですが、相手を潰そうとすることになるのが人間の世界です。隔てが争いになる。この隔てを越えることができないのが人間です。

今日のイエスさまの言葉にも隔ての壁があります。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とおっしゃっていますが、この言葉は弟子たちを派遣する際におっしゃった言葉です。10章5節から7節ではこうおっしゃっていました。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。」と。イエスさまは「イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。」とおっしゃった。そこでは、異邦人の道に行くなともおっしゃっていた。今日、イエスさまの前に現れたカナン人の女性は異邦人。イスラエルの家の失われた羊ではない。ご自分が弟子たちに語った言葉に従って、ここでカナン人の女性にも伝えているのです。
それなのに、イエスさまはティルスとシドンの地方に出て行った。どうしてでしょうか。ご自身が遣わされたのは「イスラエルの家の失われた羊」だけならば、異邦人の地に行かなくても良いのにと思えます。イスラエルを越えたところにも失われた存在がいることを知っていたからでしょうか。また、このカナン人の女性は、どうしてイエスさまのところに来たのでしょうか。カナン人であれば、イスラエル・ユダヤ人が自分たちとの間に立てている隔ての壁があることも分かっていたはず。それなのに、イエスさまのところにやってきた。カナン人の医者、カナン人の呪術師では解決できないことが、彼女の娘に起こっていたからでしょう。わらにもすがる思いで、彼女はイエスさまのもとにやってきたのです。

その女性に対して、イエスさまは「イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と言うのです。それでも、女性は「わたしに助けを与えてください。」と繰り返し懇願した。そこで、イエスさまは「イスラエル」という言葉を取り除いて、「家」の中にいる「小犬」の話をするのです。「羊」と「犬」の違いは、家の外にいる羊と家の中にいる犬の違いです。しかも、「犬」という言葉は、異邦人への蔑みの言葉として使われていました。このような言葉を使いながらも、イエスさまは犬を家の中に入れるのです。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と。こうして、「犬」という蔑みの言葉が、家の中にいる「小犬」に変えられた。カナン人の女性は「小犬」として壁を越えさせてもらうことになったのです。

ここでカナン人の女性は非常に賢く、人の言葉に込められた意味を悟る女性だったことが分かります。普通ならば、「わたしたちを犬と呼んで、馬鹿にしているユダヤ人と同じなのか、この人も。」と腹を立てたかも知れません。ところが、彼女はイエスさまが「イスラエルの家」ではなく、ただの「家」の中にいる「小犬」のイメージでおっしゃった言葉が秘めている世界に入ることができたのです。イエスさまが差し出している世界を受け取った。これが彼女の信仰なのです。

おそらく、彼女は言葉を聴く耳を開かれていた人でしょう。イエスさまの言葉を聴いて、その意味することを受け取ることのできる敏感な言語感覚があった。最近の若い人たちには文章を読み解く力がないと言われます。文章を読んで、その意味することを把握する力がないと言われます。しかし、若い人だけではなく、年齢を重ねていても文章を読み解くことができない人は多いものです。そのような人たちは言葉の世界に入ることができないのです。カナン人の女性はイエスさまが語った言葉が意味することを受け取ることができた。イエスさまは、彼女の応答に対して、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。」とおっしゃっています。「あなたの信仰は大きい」という意味です。「あなたの信仰は大きい」ということは、「あなたが与えられている信仰は、大いなる信仰だ」という意味でしょう。先週、ペトロにおっしゃった「小さな信仰」とは反対です。隔てを越えるのは、大いなる信仰です。

この女性は、隔てを越えるために、イエスさまが「小犬」を持ち出したことを受け止めた。そして、自分が「家の中」に置かれたことを受け取った。それゆえに、「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」と応えたのです。こどもからパンを取り上げて、小犬に与えるようなことはよろしくないとおっしゃった言葉の意味を受け取った。それが「パン屑」をいただく小犬という存在となることを指し示していると受け入れた。

信仰と言うものは、神さまの言葉の世界に自らを投げ入れるものです。投げ入れた自分が、その世界の中で生かされているイメージを生きるのです。蔑みと理解する偏狭な考え方では、イエスさまの憐れみを受け取ることはできなかったでしょう。神さまの言葉の世界に自らを投げ入れる人でなければ、受け取ることはできなかった。そのような意味で、イエスさまは彼女の信仰が大いなる信仰だとおっしゃったのです。

蔑みとしか受け取ることができない狭い世界から彼女を脱け出させたのはイエスさまの言葉でした。そして、その世界に入ることができたのは、イエスさまの言葉に秘められていた大いなる信仰のゆえでした。彼女は、イエスさまの与えてくださった信仰の世界に自らを投げ入れた。だからこそ、彼女の娘は癒されたのです。

預言者の言葉にも同じことが言えます。厳しい裁きの言葉を語るのが預言者です。それは神の言葉です。神の言葉は、裁きの言葉であると同時に、救いの道を秘めた言葉です。裁かれる状態から脱け出すことを求める言葉です。預言者たちが語った言葉は、神が救いへと導くために語られた言葉でした。その言葉に対して、預言者たちを批判した人たちは、「あいつらはおれたちを批判している。」と思っただけです。神の言葉は、裁きの中に救いの道があることを語っている。この神の言葉の世界に入ることができないのは、預言者の言葉を人間的な表面的な言葉としてしか聞くことができない人たちだった。聴く耳を開かれていない人たちだった。裁きの言葉に反発して、自分たちの道を歩み続け、バビロン捕囚という憂き目に遭うことになった。そこには、神の言葉の世界に自らを投げ入れる信仰はなかったのです。

ルターは、神の言葉とともに聖霊が働き、信仰が起こされると言いましたが、働かない人もいるのです。その人には、神の言葉は聞こえてこない。預言者が人間的な批判の言葉を語っているとしか聞こえてこない。そのような耳は塞がれている。隔てを越える信仰は、その人に注がれることはない。

頑なな心、固いうなじでは、神さまが与える信仰を受け取ることはできないのです。信仰は、受け取るだけです。信仰は、神の言葉の世界に自らを投げ入れるだけです。その世界はすべての人に開かれています。投げ入れる人だけが入るとしても、すべての人に開かれているのです。では、投げ入れる人はどのような人なのでしょうか。イスラエルの家の失われた羊のような人。カナン人の女性も同じように失われた小犬のような人だったのでしょう。彼女は、誰にも助けを求めることができなかった。いえ、助けを求めても、助けにならなかった。なぜなら、神の言葉の世界を開いてくれる人がいなかったからです。

イエスさまは、神の言葉の世界を開くために、来られた。わたしたちの世界に来られた。隔ての壁を作っている世界に来られた。異邦人であろうと、ユダヤ人であろうと、神さまの世界は開かれている。その世界に入る人が起こされることを願って、イエスさまは異邦人の世界へと出て行かれたのでしょう。そして、異邦人であるわたしたちにもイエスさまの世界に入れられる信仰の世界が開かれたのです。

隔ての壁を越える信仰の世界は、イエスさまが開かれた世界。イエスさまが語ってくださる言葉の世界。裁きや隔ての壁にしか見えない人には、閉じられている世界。しかし、耳を開かれている人には、大いなる世界。隔てを超える信仰の世界。この世界へと導き入れられている幸いを神さまに感謝しましょう。あなたに与えられている信仰は、カナン人の女性と同じ大いなる信仰なのです。みことばの世界に自らを投げ入れて、イエスさまと共に生きていきましょう。裁きの中に救いがある世界が、あなたの前に開かれています。素直に入る信仰によって、あなたは神の知恵を生きることができるのです。