2026年9月13日(聖霊降臨後第16主日)
マタイによる福音書18章21節-35節
「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」と最後に言われています。この「心から赦す」ということは、たとえでは負債を取り立てずに、自分が損をすることになっています。赦すことは損することだと言われると、「それは無理」と思うでしょう。「どうして、損をしなければならないのか。」、「貸したのだから、返すのは当然だ。」と思うものです。
たとえの主人は、返すことができないほどの借金を「帳消し」にしてくれたのですが、それは「憐れに思って」のことでした。ただそれだけで、膨大な借金を帳消しにする主人などいないと思えます。一万タラントンという金額は、16万年分の日当です。一デナリオンが一日の賃金だと言われます。一タラントンはその6000日分です。その1万倍ということは。一日の賃金を6000円としても3,200億円です。どうしてそんな大金を借りたのかは分かりませんが、死んでも返し続けることになります。一方、その人が奴隷仲間に貸していたのは百デナリオン、100日分の賃金、60万円です。この程度であれば、少しずつでも返してもらうことができるかも知れません。3,200億円、これは当たり前を超えています。ですから、主人は「憐れに思った」のでしょう。
この金額の借金の話をしたイエスさまは、490回の赦しなど、取るに足りないということを教えておられるのでしょう。わたしたちが「こんな微々たる赦しにこだわっていたのか。」ということになって欲しい。そうイエスさまは考えておられるのでしょう。ただし、このイエスさまの言葉を聞く人は、イエスさまに自分が負っている負債、つまり罪が16万年分だとは思ってもみないでしょう。
ペトロや他の弟子たちは、未だイエスさまの十字架を経験していません。それで、自分たちがイエスさまの十字架の負債を負っているとは思っていません。その負債が16万年分だとは考えてもみない。そのペトロが「何回まで赦せば良いのか」と聞くのです。回数が満ちたならば、赦さなくても良いと考えているわけです。しかし、赦すということは、帳消しにすることだとイエスさまはおっしゃっています。数えないのです。しかも膨大な借金の帳消しです。ところが、たとえでは帳消しにされたはずの借金が復活している。どうしてなのでしょうか。
「赦し」である「帳消し」は、貸し借りの次元とは違うということです。「帳消し」は、貸し借りがなかったことにするわけですから、貸し借りが生まれる前、貸し借りがなかった状態に戻るのです。このことを、デリダというユダヤ人の哲学者はこう言っています。「赦しは例外であって、論理に反している。」と。確かに、論理的には「借りたものは返さなければならない」となります。返さなければ、返すまで借金は残り続けるのです。これが貸し借りの論理です。この論理に反しているのが、赦しだというわけです。デリダは「赦し得ないものを赦す」ことが「赦し」であると述べています。確かに、そうです。帳消しにできないものを帳消しにすることです。ということは、わたしたち人間は本当に赦すことができるのでしょうか。
借金を帳消しにすることができる主人は、よほどの金持ちだろうと思うでしょう。一万タラントン、3,200億円が返ってこなくても困らないということのように思えます。よほど貯め込んでいるのだろうと思う人もいるでしょう。主人が貯め込んだものは、奴隷たちから搾取したものだから、借金を帳消しにするのは当然だと言う人もいるかも知れません。しかし、借りたものは返すという論理から考えれば、相手がどれだけお金を貯め込んでいたとしても、借金を帳消しにすることで、損をするわけですから、赦すことは赦す人が損を引き受けるということです。しかし、3,200億円の損を引き受けてもらった借りた人が、自分が貸していた人から60万円を取り立てる。返すまでと、牢屋に放り込む。これに心を痛めた同僚が、主人に訴えたので、最初に帳消しにしてもらった借金が復活したかのようです。ところが、最初の借金の際の取り決めに戻っただけです。例外の論理である帳消しの世界から一般的な借金の論理の世界に戻っただけです。自分がそうしているのです。
借金を返すという取り決めをして、主人からお金を借りたのですから、最初の取り決めに戻って、借金は返さなければならない。それだけです。他の人に貸していたお金は、主人から借りたお金だと言えます。その借金を帳消しにしてもらったのであれば、そこから他の人に貸していたお金も帳消しになる。これは論理的に正しいでしょう。ところが、この論理を覆したのが帳消しにしてもらった人です。帳消しにしてもらった借金は、その人の収益となりますので、自分の借金から他の人に貸していたものを返してもらうと二重取りとなるということです。これでは不正ですね。それで、自分に対しても帳消しが覆されることになる。自分で自分を牢屋に入れることになる。これが、イエスさまが語っておられるたとえです。
そうなると、わたしたち人間が「赦す」とすれば、自分が「赦されている」から「赦す」ことが論理的なことになります。「赦されている」ことを忘れてしまう人間が、「赦せない」となってしまい、自分も「赦されない」存在に戻る。だとすれば、ペトロが「何回まで赦せば良いですか」と聞くことそのものが間違いだということになります。さらに、自分が貸していると思っているお金は、自分が帳消しにしてもらったお金と比べるならば、取るに足りないものです。だからと言って、そのような損をする生き方をすることができるのでしょうか。
わたしたち人間はどうしても目の前の利益を考えてしまいます。そこからなかなか抜け出せない。たとえ、自分が借金を帳消しにしてもらっても、自分が貸しているお金があったと思い出すと、それを帳消しにはしたくない。論理的には二重取りだといわれても、「貸したものは返してくれ」と思う。これがわたしたち人間です。自分のことは別だと考えるのです。自分が借金を帳消しにしてもらったことはその論理とは相容れないものだとは思わないのです。帳消しにしてもらったものは忘れてしまう。そして、帳消しにしてもらった論理を生きることはできなくなる。
最初に膨大な借金を帳消しにしてもらった人は、借金の論理から、帳消しの論理の中へと入れてもらったのです。それなのに、帳消しの論理の中から自分で出てしまった。帳消しの論理の中に入れてもらっていたから、自分は生きて行くことができる。そこから出るならばどうなるのか。これが分からないのがわたしたち人間なのです。
キリスト教の罪の赦しの論理は、帳消しの論理です。その論理の中で生きることに移行させられたのがわたしたちなのです。ただし、罪の赦しとは、帳消しにしてもらった負債だと感じている人がどれだけいるのでしょうか。
礼拝のはじめに行われる罪の告白と赦しの中で、わたしたちは沈黙のうちに告白しますが、帳消しにしてもらった負債を考えるでしょうか。その帳消しの論理に反している自分を告白しているでしょうか。「先週はあんなことがあって、こんなことをしてしまった。」とは考えるでしょう。それが帳消しにしてもらった負債に反するところで生きてしまった罪の結果だとは告白しないでしょう。自分が覚えている罪を告白するものです。覚えていない罪は告白できない。「今週は何も悪いことはしていないので、告白することがないなあ。」と思う人もいるでしょう。覚えていない罪は、なくなったのではありません。わたしが覚えていないだけです。礼拝における罪の告白は、覚えていない罪も含めて告白するものです。それが無関心や怠惰と表現されています。意識していない罪。これが今日の帳消しにしてもらった人が陥っている罪です。
そう考えると、わたしたちはどこまでも罪深いということが分かります。わたしたちは、自分に行われた罪の百デナリオンは覚えていますが、自分が神さまに行った罪の一万タラントンは忘れている。それなのに、わたしは義しく生きていると思っている。これが原罪であると、イエスさまは見せてくださっています。
そのようなわたしが人を赦すとか赦せないとか思っていることが傲慢だということです。赦しは、損をすることを引き受けること。神さまはわたしに対して損してくださった。わたしは、神さまがわたしに対して損をしてくださったことに包まれているわけです。イエスさまの十字架が神さまの損を見せてくださっています。神さまの損する論理の中で、わたしたちは守られ、生かされているのです。あなたは神さまの大いなる損失のお陰で生きている。この恵みに感謝して、共に赦されていることを覚えましょう。
神さまが損を引き受けてくださった大いなる赦し。それがイエスさまの十字架です。「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」。この十字架の言葉があなたの心の耳を開いてくださいますように、主の憐れみを祈り求めましょう。

